現場指揮官の教訓 日下公人著
「文鎮型組織」→上のリーダーの指示に従わせる(?)自分での判断を許さない。
マニュアル化
「検査」→「処罰」
アメリカの工場作業のマニュアル化はこんなイメージはあるな。
しかし「検査して処罰」というのは、今はやりの言葉で言えば「コンプライアンス」になるような、そして「こうしなければならない」と上から決めていく感じがある。
しかし、文鎮型組織がすべてこうだとは限らない気はするな。
「ピラミッド型組織」→中間管理職がある程度の責任をもって判断する。
あいまい
これも、ピラミッド型組織がすべてそうとは限らない気がする。
めちゃめちゃ官僚主義的、マニュアル的なピラミッド型組織もありそうだ。
「コイツが育てば俺は楽ができる」→一生懸命育てようとする
「コイツが育てば俺はクビ」→育てるようとはしない。周囲全部敵。
確かにアメリカとか後者の例を聞くか。
P31 表 旧陸海軍の階級と給与(昭和18年)
区分 陸軍 海軍
高等官・勅任官・将官・大将・6600・大将・6600
高等官・勅任官・将官・中将・5800・中将・5800
高等官・勅任官・将官・少将・5000・少将・5000
高等官・奏任官・佐官・大佐・4440・大佐・4150
高等官・奏任官・佐官・中佐・3720・中佐・3220
高等官・奏任官・佐官・少佐・2640・少佐・2330
高等官・奏任官・尉官・大尉・1860・大尉・1900
高等官・奏任官・尉官・中尉・1130・中尉・1130
高等官・奏任官・尉官・少尉・ 850・少尉・ 850
判任官・准士官 ・准尉・1320・兵曹長・1220
判任官・下士官 ・曹長・900 ・上等兵曹・660
判任官・下士官 ・軍曹・360 ・一等兵曹・346
判任官・下士官 ・伍長・240 ・二等兵層・278
兵 ・兵長・156 ・兵長・192
兵 ・上等兵・120・上等兵・156
兵 ・一等兵・108・一等兵・139
兵 ・二等兵・72・二等兵・72
*特務士官を除く。左官、尉官、准士官、下士官は一等級の金額
*当時の物価:米10kg→3円36銭、はがき2銭
*資料:天漢徹也・小沢部郎編r帝国陸海軍事典』(開成社)、
伊藤隆監修、百瀬孝著『事典 昭和戦前期の日本』(吉川弘文館)など
今だと米10kgでスーパーで買うと3000円前後だよね。
もしその計算でいくと二等兵は約6万4千円。大将は約590万円。
うむ〜〜年収としては少ないな。
葉書が2銭は、今52円。二等兵は約19万円。大将は1700万円。
こちらの感覚のほうが近いかもだけれど、格差がものすごい。
でも、やっぱり、いくら住むところ、食べることが保証されてるとはいえ、年収が今の金額にして20万くらいってことはないだろうから100万円くらいと考えると、軍曹で500万円、少尉で1200万円、大将で1億円・・・やっぱりもっと少ないか・・・
P33 表 旧日本陸軍の編制
旧日本陸軍の編制
天皇
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師団 戦時1万5000〜2万5000人 師団長:陸軍中将
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旅団 戦時7000〜8000人 旅団長:陸軍少将
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連隊 戦時3500〜4000人 連隊長:陸軍大佐(歩兵連隊の場合)
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大隊 戦時1000人 大隊長 :陸軍中佐
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中隊 戦時250人 中隊長:陸軍大尉・中尉、大東亜戦では少尉も
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小隊 戦時60〜75人 小隊長:陸軍中尉・少尉
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分隊 戦時15人 分隊長:陸軍軍曹・伍長
*戦時になると、中隊の内部が小隊に分かれ、さらに小隊内部が分隊に分かれる
*旅団は昭和13年から原則的になくなり、主に独立混成旅団の形を取るようにな
った
*参考文献:伊藤隆監修、百瀬孝著r事典 昭和戦前期の日本』(吉川弘文館)、
大法徹也・小沢部郎編『帝国陸海軍事典』(開成社)、
兵車政夫『歩兵第十八聯隊史』(歩兵第十八聯隊史刊行会)など
飛行機のパイロット運用
いくつかのページで日本、ドイツ、アメリカに関して書いてあるところを引用して。
日本
建前をいえば、戦争とは将校が指揮するもので、残りの下士官はたんなる戦闘の実行者にすぎない。ところがパイロットの場合、たとえば戦闘機乗りならば、乱戦にでもなろうものなら状況判断から攻撃、防御、待避まで一人ですべて行うのである。だから、ほんらいパイロットは諸外国のように将校に限るべきであり、もし下士官にも任せるならば、彼らを将校待遇にするとか、空中では階級によらず実力本位で編隊を組み、実力者が指揮をするという特別の新措置が必要だった。
このように、現場の実情に即した用兵術を考え実行することが、上級指揮官がほんらいなすべき仕事だったはずである。それは追々、遅ればせに行われたので、岩本氏も坂井氏も最後は中尉になっているが、その制度改革はあまりにも後追いで小刻みだった。戦争に勝つことより海軍兵学校や陸車上盲学校を卒業した学卒者の威信体面を守るほうが先だったとは、情けない限りである。
日本では、「われわれが苦しいときは、敵も苦しいのである。だからここでもっと踏ん張れ」というように精神論だけでやっていたから、いつしか現場の士気が衰えていった。
「日本国民は死ぬのは恐くない」とか「天皇陛下のために喜んで死のう」といった勇ましい掛け声は、そう長続きするものではない。
で、ベテランパイロットがどんどん死んでいったのね・・・
そして下士官が将校を見限っていったことが書かれています。
ドイツ
ドイツは戦闘機パイロットについては見事なほどに実力主義を貫いていた。そしてそれに階級を惜しまずに与えた。数字は忘れたが、十機撃墜すれば大尉になり、三十機撃墜すれば少将、五十機で大将、とわかりやすく昇進した。
で、最後はドイツのパイロットはどうなっていったのだろう・・・
アメリカ
アメリカは戦死者を出さないためか、二十機を超えると早々に引退させたから、三十機以上を撃墜した英雄がいない。戦死するまで出動を命じつづけた日本とは大違いである。
アメリカは戦果より出撃の回数で管理して、責任回数を達成したパイロットは、国民の義務を果たしたとして、国内へ帰還を命じた。B29の日本爆撃の場合、それは二十五回だったので、被害率が四八Iセントを超えると、パイロットに動揺が広がった。百機出撃して四機以上の損害があると、戦術・戦法を変更した。
昼間精密爆撃が昭和二十年三月十日から夜間焼夷弾爆撃に変わったのはそのためである。
アメリカでは、厳しい戦局になっても休暇をきちんと与えることで、パイロットの疲労回復と健康管理、そして戦力の維持を図っていた。
アメリカ軍の戦闘機パイロットは、敵機を約二十五機撃墜すれば戦線から帰還し、地上勤務や教官配置に就くことになっていた。
そのためアメリカ軍パイロットの個人撃墜数は少ないことになる。十分な休養と後方への配置転換が約束されていたから、アメリカ軍のパイロットたちは精神的にも肉体的にも、余裕をもって戦えた。
う〜〜ん、著者はアメリカ的経営はよくない、という立場で書かれてて、しかしこのあたりを読むと、あまり下士官以下の気持ちを忖度せず、将校を育てていき、マニュアル主義だったアメリカが良いように思えてくる・・・
戦時と平時の違いとかがあるのかな・・・
でも、日本の下士官(現場の人間たち)が優秀だったことは間違いないだろう。