私の関わりのある法人
ksbutton.png omemebuttan.png sowerbuttan.png
※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2015年12月20日

恵便(えべん・えびん)


 昨日、加古川市にある鶴林寺に行って来ました。

 Wikipediaによると、この播磨地方には、聖徳太子が創建した、という話が伝わっているお寺が多いのですね。

 鶴林寺もそういうお寺のひとつです。
 天台宗。
 でもその伝承が、高句麗僧の恵便が聖徳太子の時代に日本にやってきたのだけど、当時は崇仏派と排仏派の対立がひどかったので、僧とわかれば殺されるかもしれないと、還俗して隠れ住んでいたところ、聖徳太子が恵便のために鶴林寺を建て、仏教を学んだ、という結構面白い話です。

 Wikipediaには高麗僧となっていますが、鶴林寺のパンフレットでは高句麗僧となっています。
 こちらに結構詳しく書いてはりますね。

仏法を広めた播磨国の恵便(えべん)

 私は仏教伝来は538年(仏教が来てごさんぱい)と覚えたのですが、これは元興寺縁起により、552年説は日本書紀によると。へえ。

 で、538年から約30年後、恵便は高句麗から遣わされたのだけど、どういう感じでなんだろう。高句麗王からの使節としてだろうか、それともイエズス会のザビエルみたいに国としてではなくある意味ボランティアとして?(まあ植民地支配の尖兵みたいな役割もあったのだろうけど)

 でも当時の日本(って国名は無かったか?)での仏教迫害は半端じゃないから、還俗して播磨地方に身を隠していたと。

 そのあたり、584年に恵便(この時期は既に公然化してるわけね)の弟子になった善信尼は、

翌585年(敏達天皇14年)3月、物部守屋による廃仏運動により法衣を剥ぎ取られて全裸にされ、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。

やもんなあ・・・

 なお、善信尼は

 父は司馬達等。
 仏師・鞍作止利の叔母にあたる。
 名は嶋。
 恵善尼や禅蔵尼とともに日本最初の尼僧の一人。


だって。

 で、時代は前後するかもだけど、隠れ住んでいた恵便を大和朝廷が見つけ、聖徳太子が恵便に教えを請いにやってきた。そして寺を作ったのが鶴林寺の始まりであると。当時、太子は12歳(今なら小学校6年生か中学校1年生だよ)で、当時の長髪でみづらも結っていない太子像が鶴林寺にはありました。

 斑鳩の里から、播磨地方まで、12歳の少年が歩いて来るかなあ、とも思うけど、当時の人は歩くのが当たり前のことで、私が「ヒエーーッ、そんなところまで歩くの!?」と思ってるような距離を歩くのはごく普通のことだったんだろうか?(まあもともとが伝説なんだけど・・・)

 また高句麗の人が「隠れ住む」のは簡単だったのかな?

 播磨地方土着の(といってもより大昔から渡来して来てた人たちかもしれないけど)伊和大神(いわおおかみ)が新羅から来た天日槍命(あめのひぼこのみこと)と瀬戸内海に注ぐ揖保川河口で戦い、北方に逃げたら山の中でまた渡来人に会い「先回りされたか」と思ったけど、実はもともとそのあたりに鉄を求めて以前から入って来てた人たちだった、という話もある。

 もともと「国」という概念はあったんだろうか?
 高句麗からきた人も住みやすかったんだろうか?

アメノヒボコ VS オホナムチ 揖保の地名起源(「播磨国風土記」より)
天日槍最後の戦い(「播磨国風土記」より)

 結局、崇仏派と排仏派の戦いは丁未の乱(587年)に物部守屋が殺されて勝負がついていますね。

 その後は恵便も生き安かったかな。
 でも、崇仏といっても(しかたないとはいえ)血なまぐさいですよね。
 
posted by kingstone at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

やがて哀しき外国語 村上春樹著






やがて哀しき外国語 村上春樹著
1994.2.25 第1刷発行
1992.8〜1993.11 雑誌「本」に連載された

村上春樹

1991年プリンストン大学客員教授として招聘される

 1984年に村上さんがプリンストンに行った時、タクシーに相乗りしたら、1人の黒人客がヘアスプレーをかけ出して止まらなくなり、白人運転手が途中でおろした、ということがあったと。で「ラリっていたのかもしれない」と書かれてる。その後、運転手が
「昔はあんなのはここにいなかった」
「でもな、ビジネス団地なんかをこの近郊に誘致したせいで、あの手のやつらがずいぶん入ってくるようになったんだ。あと何年かたったらこの辺もどうなっていることやら、まったく」

と言ってたそう。

 しかし、1991年でも、プリンストンは浮き世離れした郊外都市だったとのこと。

 でも、プリンストンが、というよりアメリカ自身が変わってしまった部分はあるかも、と。

「この国を内側からつぶさに見ていると、勝って勝って勝ちまくるというのもけっこう大変なことなのだなあとつくづく痛感する。ベトナムでは挫折があったものの、確かにこの国は冷戦にも勝ったし、湾岸戦争にも勝った。でもそれで人々が幸せになれたかというと、決してそうではなかったようだ。人々は十年前に比べてより多くの重い問題を抱えて、そのことでいくぶん戸惑っているように見える。国でも人間でも、挫折や敗北というものが何かの節目においてやはり必要とされるのかもしれないという気がする。でもだからといってアメリカにとって代わるだけの明確かつ強力な価値観を提供できる国家が現在他にあるかというと、これはない。そういう意味では、現在の一般的アメリカ人が感じている深い疲弊の感覚は、現在の日本人が感じているむずむずした居心地の悪さと裏表をなすものではないかと感じる。」

もともとニュージャージー州プリンストンは、
1746 ニュージャージー大学創立
1756 ニュージャージー大学がプリンストンに移ってきてプリンストン大学となる。
   (1756年は宝暦6年。
    この頃、安藤昌益が「自然真営道」を著し、
    東北大飢饉が起こる。
    また本居宣長が賀茂真淵に松坂で弟子入り
    したのは1763年宝暦13年。
    ちなみに1756年はモーツァルトが生まれた年)

 ということで学術都市の面が大きかったのが、交通機関の整備によってニューヨークやフィラデルフィアへの郊外都市の側面も持つようになり、それでもより発展を願ってビジネス団地を作ったということなんだろうな。

 なお、1915年にプリンストン高校が開校している。当時、学校は人種別が当然であった時代に人種共学校だったって。また上のWikipediaによると

 プリンストンの全ての学校で全人種共学になったのは、1947年にニュージャージー州憲法で公立学校および民兵における人種隔離が禁止されてからのことである。

 ってことだから、かなり先進的に人種隔離を無くそうとしていた地域であることがわかる。

 で、プリンストンは学術都市だし、村上さんも客員教授だし、つきあう人たちはインテリであったりお金持ちであったりするわけで、そういう人たちは「人種差別的な発言はしない」ことで徹底している。村上さん自身、一度だけ知り合いの家で、ある年をとった元教授が「君たちジャップが・・・」と言ったとたんシーンとしてしまい、あとでホストが「彼には悪意は無かったんだ」ととりなして(?)くれたそう。

 しかし、現実には、彼らが「あの町のここから北には行ってはいけないよ」と忠告してくれたりするのだけど、その地域の住民の94%が黒人だったりする、という現実はあったとのこと。

 それは「人種差別」ではなく「危険な地域か危険でない地域か」の情報を伝えているだけだから別にいい、という話になるんだろうな。

 私自身、若い時、友人のお見舞いに行くのに知らない町の駅で降り、夜道を歩いて病院まで行ったことがある。そしたらお見舞いに来ていた友人から「えっ。あそこ夜歩いちゃいけません」と言われ、「いやあ、もし危ない目にあったら、あったでええんちゃう」とこたえたらそこから延々と議論になったことがあったな。彼に言わせると「僕はkingstoneさんのためを思って言ってあげたのに」というわけ。まあ難しいことではあるけどね。
 でも、日本だと、真夜中だとどこでも危険には違いなく、お見舞いに行くような時間なら夜でもだいたいは安全だと思うけどなあ。
   

 クエーカー教徒(イギリスでチョコレート産業を大きくしたり、労働問題から福祉政策に大きな力を及ぼした人たち)は、南北戦争によって奴隷制度が廃止される前の時代に、逃亡奴隷を官憲の目から匿い、南部から逃げて来た黒人奴隷を自由州かカナダまで逃がすための「アンダーグラウンド・レイルロード」という秘密ルートを作り上げていた。で、その中継点にある家には忍者屋敷みたいにたくさんの隠し部屋があったんだって。


愛国的雰囲気について

1990年8月に湾岸戦争(フセインのイラクが、クゥエートに侵攻したことがきっかけとなり、多国籍軍がイラクを攻撃した)


 プリンストン大学でデモを見かけたので、村上さんは「おお、反戦デモやってる」と思ってよく見たら「プロ・ウォー(戦争賛成)」のデモだったって。

 で、当時の「愛国的雰囲気」は日本人としての村上さんにとって結構いごこちの悪いものだったそう。


大学について

 この1991年頃のアメリカの大学でも財政難で、以前はテニュア(終身雇用権)さえ取ってしまえば一安心という感じだったのが、学部自体がばっさり無くなれば終り、みたいなふうになってたって。
 今の日本だけが厳しいわけじゃないんだな。


 
黒人タクシードライバーとの話

ドラ「あんた、ピアニストのバリー・ハリス知ってるか?」
村上「知ってる。良いピアニストだ」
   (元ジャズ喫茶店長だもんね)
ドラ「あれも俺の友達なんだ。あいつが言ってた。
   日本に行ったらみんな王侯貴族みたいにもてなされる
   ( treated like a king )んだって。道を歩いていたら、
   みんなが寄ってきてサインしてくれって言うんだって。
   あいつは本当にびっくりしてたよ、うん。
   びっくりして感激してた。
   だってな、バリーがニューヨークを歩いてたって
   誰も見向きもしないよ。
   みんなただ絞り上げられたり、小突き回されるだけだ。
   なああんた、ここの国では俺たちはみんなほんとうに
   犬のように扱われる( treated like a dog )んだよ、
   オー・ヤー」
posted by kingstone at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

12月20日(日曜日) 命長ければ辱多し(徒然草)



 おはようございます。

 ついに20日。
 12月中旬の終わりの日。
 もう2015年も終わるなあ・・・

 天気予報は晴れのち曇り。
 最高気温が 12℃。
 寒い目やな。


原文『徒然草』全巻より

・ 第七段

 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに、物の哀れもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。

 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなり行くなん、浅ましき。



「世の中は、何がどう起こるかなんて、決まってるもんじゃない。そこがいいんだよね。」

 これはそう思う。何が起き、どう動くか、わからないからこそ楽しいじゃん、と。

 「長生きすりゃ、恥ずかしいことをしてしまうことも多いよね。」

 これもそうだよね。ギャッと叫びだしそうなことが、ほんといっぱいある。
posted by kingstone at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月19日のつぶやき






























posted by kingstone at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする