物語 イタリアの歴史
藤沢道郎著
第5話 作家ボッカチオの物語
カルロ1世 (シチリア王。アンジュー伯シャルル、シャルル・ダンジュー)
1227 - 1285
1266 シチリア占領(皇帝フェデリーコの遺児たちを滅ぼす)
1282 シチリア晩鐘戦争(一般市民による反カルロの反乱)
1302 和議成立(スペインのアラゴン王に一部領有権を認める)
1305 「アビニョン捕囚」
クレメンス5世(ボルドー大司教)が教皇に選ばれ、
教皇庁をローマからアビニョンに移した。
ダンテ・アリギエーリ
1265 - 1321 フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。
「神曲」
皇帝フェデリーコの宮廷とフランチェスコ修道会の僧房から発した新文学の流れが、ダンテの中で合流。「俗語」と呼ばれた話し言葉を高度に練り上げ、ラテン語に劣らぬ表現力を持つ言葉とした。それが「イタリア語」となり、「統一されたイタリア」という概念を知識人が持ち続けるよりどころとなる。
教皇とフランス軍の圧力に反抗してフィレンツェを追われた。
ルネサンスの先駆者と呼ばれる。
フランチェスコ・ペトラルカ
1304 - 1374 イタリアの詩人・学者・人文主義者。
やはりフィレンツェを追放され亡命者となる。
14世紀初頭 フィレンツェの経済的躍進
人口10万
ワイン消費量 年間大瓶6万本
食肉消費量 年間牛4000頭 豚30000頭
ほとんどの児童が学校に通い読み書きを学んだ
上級学校進学率5%を越えた
ジョヴァンニ・ボッカチオ
ちなみに私、ずっと「ボカッチオ」だと思ってました。
グァテマラも「グァマテラ」と思ってたし・・・
カタカナはよく順番を入れ違えて覚えてます・・・
1313 - 1375 中世イタリア、フィレンツェの詩人、散文作家。
14世紀ど真ん中。
日本だと鎌倉時代が終わり、室町時代が始まった頃。
父は銀行家バルディ一族。フィレンツェ近郊にいたが、外の女性にボッカチオを産ませ、そのまま引き取った。そしてボッカチオが幼いうちにナポリにやり、商業実務を学ばせた。しかし文学に没頭。
みんなに好かれたが、父には反抗。商業実務を学ばないので、父は教会法の勉強を命じた。(やっぱりこの頃だと教会関係の知識って実学であったわけだ)しかしやはり勉強せず文学に没頭。ダンテやペトラルカにあこがれる。
ナポリのロベルト王(カルロ1世の孫)は文化に関心が深く、バルディ銀行はナポリに大きな融資をしていたから、ボッカチオは宮廷に出入りできていた。
ダンテ 町娘ベアトリーチェに恋をする
ペトラルカ 貴婦人ラウラに恋をする
ボッカチオ マリーアに恋をする
(ボッカチオはフィアンメッタ・小さな炎と呼ぶ。
ナポリ王ロベルトの庶出の王女。アクイノ伯に嫁いでいた)
金の切れ目が縁の切れ目。
1339 英仏100年戦争始まる
英王エドワード3世にバルディ銀行・ベルッツィ銀行が戦費を融資し焦げ付く
フランスは両銀行の支店を閉鎖
フィレンツェでは大銀行が次々と倒産。ボッカチオの父は、ナポリから攻撃されることも有り得るので、ボッカチオを呼び戻した。結局教会法の免状も取れず、文学者としても評価されていないまま。
1342 フィレンツェは経済的に行き詰まり、
民主自治の制度を捨ててナポリ王国の武将
アテネ公ゴーティエ・ドゥ・ブリアンを
「終身の君主」として迎えた。
1343 市民蜂起でアテネ公の政権を倒す。
経済的に行き詰まると独裁者を迎えたくなるんやなあ。でもやっぱりうまくいかないと・・・
この頃、フィレンツェは大混乱で、ボッカチオは北イタリア諸都市を歴訪して就職口を探していた。
1347 ペスト(黒死病)がコンスタンティノープル・
キプロス・シチリア・サルデーニャ・マジョルカへ
年末にマルセイユ・ベネツィアへ
1348 アヴィニョン・フィレンツェ・英国まで
1349 北欧へ
1351 ロシアへ
この本では当時のヨーロッパ人口推定1億人中2500万人(1/4)が死んだ、となっているが、「ヨーロッパがわかる」では3500万人(1/3)が死んだ、となっている。
ペスト菌が発見されたのは、1894。北里柴三郎とイェルンサによって。
1348-1353 ボッカチオ「デカメロン」を書く。
ペストの惨禍を逃れて邸宅に引きこもった
男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話をする
という10日間の物語。
10人が10話ずつ語り、全100話からなる。
イタリア語散文の骨格を作ったとされる。
ペストは人々を刹那的にするか自虐的な贖罪の態度をとらせた。
前世紀に一時流行った鞭打ち行進がペストの時に大規模に行われるようになった。
(「ええじゃないか」とはずいぶん違うな・・・「ダ・ヴィンチ・コード」の中で出てきたオプス・デイの修道士さんは鞭打ちみたいなことをしてたが・・・)
しかしそんな中でボッカチオはフィレンツェを理性的に社会の秩序や行政を建て直そうとし、積極的に市政に参加した。
1375 ボッカチオ死す。
100年戦争たけなわ。
仏軍は不利。ジャンヌ・ダルクはまだ現れていない。
フランスが弱っていたので、教皇庁はローマに復帰。
ピサ大聖堂のカンポ・サントの墓廟(ぼびょう)に「死の勝利」の壁画がある。
ヨーロッパがわかる 起源から統合への道のり 明石和康著(2)
しかし・・・「デカメロン」という名前を見ると頭に浮かぶのは・・・
