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 あくまでも、私個人の意見です。

2015年12月06日

第5話 作家ボッカチオの物語(物語イタリアの歴史)





物語 イタリアの歴史
藤沢道郎著

第5話 作家ボッカチオの物語


カルロ1世 (シチリア王。アンジュー伯シャルル、シャルル・ダンジュー)
1227 - 1285

1266 シチリア占領(皇帝フェデリーコの遺児たちを滅ぼす)
1282 シチリア晩鐘戦争(一般市民による反カルロの反乱)
1302 和議成立(スペインのアラゴン王に一部領有権を認める)
1305 「アビニョン捕囚」
    クレメンス5世(ボルドー大司教)が教皇に選ばれ、
    教皇庁をローマからアビニョンに移した。



ダンテ・アリギエーリ

1265 - 1321 フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。
        「神曲」

 皇帝フェデリーコの宮廷とフランチェスコ修道会の僧房から発した新文学の流れが、ダンテの中で合流。「俗語」と呼ばれた話し言葉を高度に練り上げ、ラテン語に劣らぬ表現力を持つ言葉とした。それが「イタリア語」となり、「統一されたイタリア」という概念を知識人が持ち続けるよりどころとなる。
 教皇とフランス軍の圧力に反抗してフィレンツェを追われた。
 ルネサンスの先駆者と呼ばれる。


フランチェスコ・ペトラルカ

1304 - 1374 イタリアの詩人・学者・人文主義者。
        やはりフィレンツェを追放され亡命者となる。


14世紀初頭 フィレンツェの経済的躍進
       人口10万
       ワイン消費量 年間大瓶6万本
       食肉消費量  年間牛4000頭 豚30000頭
       ほとんどの児童が学校に通い読み書きを学んだ
       上級学校進学率5%を越えた


ジョヴァンニ・ボッカチオ

 ちなみに私、ずっと「ボカッチオ」だと思ってました。
 グァテマラも「グァマテラ」と思ってたし・・・
 カタカナはよく順番を入れ違えて覚えてます・・・

1313 - 1375 中世イタリア、フィレンツェの詩人、散文作家。
        14世紀ど真ん中。
        日本だと鎌倉時代が終わり、室町時代が始まった頃。

  父は銀行家バルディ一族。フィレンツェ近郊にいたが、外の女性にボッカチオを産ませ、そのまま引き取った。そしてボッカチオが幼いうちにナポリにやり、商業実務を学ばせた。しかし文学に没頭。

 みんなに好かれたが、父には反抗。商業実務を学ばないので、父は教会法の勉強を命じた。(やっぱりこの頃だと教会関係の知識って実学であったわけだ)しかしやはり勉強せず文学に没頭。ダンテやペトラルカにあこがれる。

 ナポリのロベルト王(カルロ1世の孫)は文化に関心が深く、バルディ銀行はナポリに大きな融資をしていたから、ボッカチオは宮廷に出入りできていた。

ダンテ   町娘ベアトリーチェに恋をする
ペトラルカ 貴婦人ラウラに恋をする
ボッカチオ マリーアに恋をする
      (ボッカチオはフィアンメッタ・小さな炎と呼ぶ。
       ナポリ王ロベルトの庶出の王女。アクイノ伯に嫁いでいた)
      金の切れ目が縁の切れ目。

1339 英仏100年戦争始まる
    英王エドワード3世にバルディ銀行・ベルッツィ銀行が戦費を融資し焦げ付く
    フランスは両銀行の支店を閉鎖

 フィレンツェでは大銀行が次々と倒産。ボッカチオの父は、ナポリから攻撃されることも有り得るので、ボッカチオを呼び戻した。結局教会法の免状も取れず、文学者としても評価されていないまま。

1342 フィレンツェは経済的に行き詰まり、
   民主自治の制度を捨ててナポリ王国の武将
   アテネ公ゴーティエ・ドゥ・ブリアンを
   「終身の君主」として迎えた。
1343 市民蜂起でアテネ公の政権を倒す。

 経済的に行き詰まると独裁者を迎えたくなるんやなあ。でもやっぱりうまくいかないと・・・

 この頃、フィレンツェは大混乱で、ボッカチオは北イタリア諸都市を歴訪して就職口を探していた。

1347 ペスト(黒死病)がコンスタンティノープル・
   キプロス・シチリア・サルデーニャ・マジョルカへ
   年末にマルセイユ・ベネツィアへ
1348 アヴィニョン・フィレンツェ・英国まで
1349 北欧へ
1351 ロシアへ

 この本では当時のヨーロッパ人口推定1億人中2500万人(1/4)が死んだ、となっているが、「ヨーロッパがわかる」では3500万人(1/3)が死んだ、となっている。

 ペスト菌が発見されたのは、1894。北里柴三郎とイェルンサによって。

1348-1353 ボッカチオ「デカメロン」を書く。
      ペストの惨禍を逃れて邸宅に引きこもった
      男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話をする
      という10日間の物語。
      10人が10話ずつ語り、全100話からなる。
      イタリア語散文の骨格を作ったとされる。

 ペストは人々を刹那的にするか自虐的な贖罪の態度をとらせた。
 前世紀に一時流行った鞭打ち行進がペストの時に大規模に行われるようになった。
(「ええじゃないか」とはずいぶん違うな・・・「ダ・ヴィンチ・コード」の中で出てきたオプス・デイの修道士さんは鞭打ちみたいなことをしてたが・・・)

 しかしそんな中でボッカチオはフィレンツェを理性的に社会の秩序や行政を建て直そうとし、積極的に市政に参加した。

1375 ボッカチオ死す。
    100年戦争たけなわ。
    仏軍は不利。ジャンヌ・ダルクはまだ現れていない。
    フランスが弱っていたので、教皇庁はローマに復帰。

 ピサ大聖堂のカンポ・サントの墓廟(ぼびょう)「死の勝利」の壁画がある。

ヨーロッパがわかる 起源から統合への道のり 明石和康著(2)

 しかし・・・「デカメロン」という名前を見ると頭に浮かぶのは・・・

デカメロン.jpg

posted by kingstone at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

12月6日(日) 別嬢(「播磨国風土記」より)



 こんにちは。

 曇りです。


「古代からのメッセージ 播磨国風土記」の
「古代播磨の女性たち」古山桂子 より


印南の別嬢(いなみのわきいらつめ)

  大帯日子命(おおたらしひこのみこと・景行天皇)が別嬢をつまどうため赤石の郡まで来たことを聞くと、別嬢は南毗都麻嶋(なびつましま)に隠れた。

  命が印南まで来て別嬢がいないことに気づき困っていたら、白い犬が海の方向へウォーンと吠えた。その白犬は別嬢の愛犬だとわかった。

  そこで南毗都麻嶋に行き、プロポーズして結婚した。

南毗都麻嶋はどこか、といういくつかの説。
      ・加古川河口の三角州(高砂市荒井・高砂町)
      ・上島(かみしま)か鞍掛島(くらかけしま)
      ・岬で今は無い(周囲が埋まって陸地になったということかな?)
      ・とまり山(姫路市的形町)


折口信夫 古代、求婚された娘は、まず逃げ隠れするのが例で、
     それは神の嫉妬で結婚が不幸な結果になるのを
     恐れるため

沖縄 村の神に仕えた娘は、結婚式の夜に身を隠す
      という風習があった


  別嬢が亡くなった時、遺骸を乗せた船が印南川(現在の加古川)を渡っていると竜巻が起こり、遺骸を川の中に巻き込んだ。

  遺骸はいくら探しても発見できず、後に匣(くしげ)と褶(ひれ)の入った化粧箱とスカーフだけが発見された。


  そこでこの2つを納めて墓とし、褶墓(ひればか)と名付けられた。今の日岡山山頂の日岡陵。

  なお、日本武尊(やまとたける)は別嬢の子とされる。


posted by kingstone at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月05日のつぶやき








































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