おはようございます。
雨です。
「古代からのメッセージ 播磨国風土記」の
「播磨を通った古代の道」浅田芳朗 より
すなわち、「三十里(現在の二十キロ)ごとに駅が置かれ、駅長、駅子(使用人)がおり、駅馬も大路(山陽道)二十疋、中路(東海道、東山道)十疋、小路(北陸道、山陰道など)五疋と決まっていた。駅には宿泊所、うまやなどがあった」、とのことです。そして当時の旅人はI日にひと駅かふた駅行くのが普通だった。だから四十キロ進めばいい方だったということです。
山陽道が他の道に比べて大きくて整備していたんだろうな、というのがわかる文ですね。
20km・・・それだけ歩くのもたいへんだと思う。
しかし、こうして整備された駅家も長くは続かず、わずか百六十年ほどで衰えていきました。役人だけを泊めるわけですから、利用者が少ない。それに、宿泊者から料金を取り立てることもできない。そして道路の補修などもなおざりになって、平安中期にはもう有名無実の存在となっていったようです。
「こんなの作る」と計画しても、当時の管理は、どうやったら儲かるか、という視点をまったく欠いてたのかな?