※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2015年12月31日

本田由紀 (「調べる」論 木村俊介著より)





「調べる」論 木村俊介著


「現実の解決策は、面倒な作業の後にしか見つからない」

本田由紀
   教育学者、博士(教育学)。
   東京大学教授。
   専門は教育社会学。


「私がいいかげんだなと感じるのは、社会の問題に対して誰かをモンスターのように仕立て上げて敵にしてみたり、あるいはすばらしい価値があるように見えて誰も逆らえないかに見える正論を言ったりもするけれど、問題そのものは放置されていくという風潮に対してです。予算もかかるが実効性はある、そういう必要な解決策が講じられないまま世の中がどんどんひどくなる状況には、もう我慢ができないんですよ」

「誰かをモンスターのように・・・」とかいうのは、例えば「ゆとり教育が悪い」とかいうやつかな。またその例で言うと

「若者をめぐる年長者のお喋りはやめよう」

というのは、「この頃の若いもんは」とか「これだからゆとりは」とか言うような言説だよな。

 実際、私が周囲で見る若者たちは、みんなすごくいろいろやってるな、勉強してるな、というのが実感なんだけどね。(そりゃまあ「私の周囲」という時点でバイアスかかりまくりかもしれない)

 で、私が高校・大学の時って、ほんと勉強しなかったし、勉強しないもんだから周囲に留年するやついっぱいいたし・・・(まじめに勉強して大企業に入る奴もいないわけじゃなかったけど。で、これまた「私の周囲」という時点でバイアスかかりまくりかもしれない)


「『若者と仕事』の時の私は、社会で若者を守るものを「専門性」と言ってしまうだけで終わらせてしまうみたいな側面もありました」
(中略)
「そこで今回の本(「教育の職業的意義」ちくま新書)では冒頭に「あらかじめの反論」という章を書かなければ議論を先に進められなかったんです。そこでは「専門性」について、若者にとって柔軟な武器になってくれるであろうものとして詳しく触れています」



 買って来た・・・高いよ・・・



 今日、ジュンク堂に行ったけど、在庫が無かったので、アマゾンでポチしました。

「『教育の職業的意義』は書くのに時間がかかり、苦しみ、原稿を書き終えて数ケ月は経っているのですが、今も脱力が続いているんです。自分の議論は我ながら細い線を辿っているなとも思う。教育の職業的意義は、一歩間違えば社会の歯車としての人材を要請するような旧来型の職業教育になり、別の方に間違えばキャリア教育的な、「やりたいことを考えよう」みたいなものにもずれてしまう。その隙間をつく議論をしているつもりではあるんです。
 すると、どんな立場からも「私とは対立する側に立っている」と思われ、それがいくつもの方向に広がり四面楚歌的になるというところはあるんですよ。しかも、すごくドラスティックな改革について語っているかのようにも受けとめられてしまう。」


 この感じ、わかる。

「つまり、私は90年代に多くの若者が陥った状況を少し早めに経験していた。だからこそ90年代以降の現象に深入りしてしまい、思い入れを持って研究をしているとも思うんです。それ以降の若者が置かれた状況は、自分か経験したままのようにも感じられるので。
 ただ、そう言ったとたんに「本田由紀の存在意義は、世の中にルサンチマンを唱えること以外にあるのか?」みたいにネットで書かれたりもします。そう書かれてみれば、確かに自分はルサンチマンで研究を続けているようなものだと思っちゃったりもするんですね。だから何と言うか、へこむと同時にそうせざるをえないとも思うし、逆にそれしか意義がないんだったらルサンチマンを唱えきってやろうじゃないかとさえ考えているんですけど。」



 ええんちゃうかな。

 私自身の原動力は「恨み(ルサンチマン)」ではなく「怒り」と「悲しみ」だけど。
 目の前で威嚇と暴力が行われていた。それに対し、自分のできる範囲では「そうでないもの」を学校に取り入れようとしたけれど、その時点の私が担当している以外の子どもたちには(つまり学校全体には)無力だった。
 そしてまた私が「とってもえらい人たち」から罵倒されて来た。
 そういうことに対する怒り。

 また現在なら、「何で、この子たちが、未だにちゃんと理解されず、不適切な行動をとらされているのか」。そういう「怒り」。

 ※なんかアフェリエイトを貼ってるところ、全然画像が出てこないなあ・・・

 あっ、わかった!!
 Android では見えてるから、私がMacのChromeに入れた機能拡張でアフェリエイトがブロックされてるんや!!


posted by kingstone at 06:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

12月31日(木曜日) 山寺にかきこもりて、佛に仕うまつるこそ(徒然草)



 おはようございます。

 天気予報は晴れ時々曇り。
 最高気温は12℃だから、昨日より暖かくなる予定か。

 いよいよおおみそか。
 今年は妻が「おせちは作らない」宣言をしたので、29日の買い物もなく、なんか普通の祝日みたいな日が続いてます。


原文『徒然草』全巻より

・ 第十七段

 山寺にかきこもりて、佛に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

 山寺に引きこもって、仏におつかえすることこそ、手持ちぶさたということもなく、心の濁っているのも清まる気持ちがする。

 もうね・・・ほんと山の中の寺で、掃除、読経etc.をして暮らしたい、って思ってる人も多いんじゃないかな。なんか私も憧れる。
 で、きっと、こころもからだもすっきりすると思う。

かき−こも・る 【搔き籠る】
   引きこもる。閉じこもる。
posted by kingstone at 05:27| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月30日のつぶやき






























































































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2015年12月30日

加藤弘士 (「調べる」論 木村俊介著より)




「調べる」論 木村俊介著

「15分で1000字を書かなければならない時もある仕事です」

加藤弘士

 スポーツ報知プロ野球担当記者

「野村さんがつねづね重視するべきとおっしゃるプロ意識という言葉の裏側には、おそらくその興行という側面が貼りついているんじゃないか。要は客商売ということをたいへん心得ている、サービス精神のある方なんです」

 そう、サービス業、客商売。
 私の仕事だとどうなるんだろう・・・

 お客様ってのは、実は親御さんじゃないんだよね。親御さんを支援することも大事なんだけど、親御さんを「いい気分」にさせることが仕事では無い。まあ、そう言いながら、実は親御さんにも最終的には「良かった」といい気分になって頂きたいと強く願っているのだけど・・・

 お客様ってのは、「児」を対象にしてたら、あくまでも「その子本人」なんだよね。

 でも最初に動くのは親御さんでしかない。もちろんお子さん自身に「良かった」「嬉しい」「やったぜ」と思ってもらうことを第一に考え、お子さん自身から私や社のサービスを受けたい、と思ってもらえるように努力してるんだけど。

「これは人生最大の挫折ですけれど、ぼくは2006年に結婚し、2007年にスピード離婚しています。完全に自分が悪くて、家を放っておいたツケがまわって愛想をつかされたわけですが、取材の時にはいつも心がけている先読みや気配りが、何でできなかったかって話なんですよね」

 むつかしいなあ・・・
 仕事での動きとプライベートでの動きは同じにできないもんなあ・・・

「こんなぼくにも、たまに会社へ読者の方からファンレターが届くのですが、以前、斉藤佑ちゃんのファンのおばさまから、『今日のスポーツ報知は、自分の人生の中で、130円でした買い物の中で一番いいものだった』という手紙をいただいたんですよ。もう、うれしくてたまらなくて!その時の紙面は、かなりの準備と苦労を重ねて作ったものだったので『見ている人は、見ているんだな』って。ああ、この商売を選んで良かったと、心底思いました」

 ほんとね。
 大人になるとなかなか褒められなくなる。
 でも褒められると嬉しいよね。
 いくら心で思っていても、表明してくれないとわかんないもんね。

posted by kingstone at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

栗原俊雄 (「調べる」論 木村俊介著より)



「調べる」論 木村俊介著


「罪深い取材をするからには、まっとうなものを書きたい」

栗原俊雄

毎日新聞記者。

 プレジデントの「20世紀遺跡 帝国の記憶を歩く』栗原俊雄」という記事にリンクを貼りました。

 この記事に紹介されている中で、特にシベリア抑留の話を中心に書かれています。

 当時大谷大学教授の廣瀬杲に親鸞についての資料発見のことを質問しに行き、一段落して「シベリア抑留の経験をされたんですね」と言うと、今までの丁寧な説明から一転し、口が重くなり「話してもわかってもらえないでしょうから」と言われ、もうこれ以上聞いてくれるな、という態度になられた、と。

 で、それからシベリア抑留のことを話してもらうのに半年かかったそうです。
 ねばり強いですね・・・

 シベリア抑留体験者には広島や長崎や沖縄にはある「祈りの場」もないんです。

 これは、現場が外国だから、ということ?
 北なんだから、シベリアを臨む稚内とかに作るという手はありそうだけど・・・
 それとも各自の「思い出したくない」という思いが強過ぎて、集まって相談して「作ろうよ」という気分にはとてもならない、ということが大きいのかな。

 原爆の後遺症のようには、今もシベリア抑留体験者の中で後遺症を引きずっている人たちの話は出てきません。

 これは後ろの方にある、

 本人にも整理のつかない過去を聞く時は、何に気をつけているか? 体験のすべては聞き出せていないと思うんです。抑留者どうしで他人を吊るしあげてしまう体験、これについては吊るしあげられた体験はよく出るんです。ただ、自分が誰それを吊るしあげたという話はまず出ない。そういうことです。本には一人だけその話をしてくださった方の言葉を載せていますが、ぼくが取材した方々には、吊るしあげる側の人はもっといたのだろうと推測しています。でも、それはたぶん言わなかったのだろうなと感じているんですよね。
 あるいは兵隊から盗みを働いた人間、そういう加害者側の話を聞き出せたのは圧倒的に少ないです。そうした限界は感じていますね。


 とかいうことに関わって来るんだろうな。

 で、記事や本にする時は「裏を取る」こともやってはります。
 確かに、私も過去の話は「盛る」ことにはなりがちだ。
 そういう時に、記録(過去に書いたエントリも)があれば、やはり修正する力になるな、というのはよく感じます。

posted by kingstone at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする