藤沢道郎著
第4話 皇帝フェデリーコの物語
フェデリーコはイタリア読み。
日本ではドイツ読みのフリードリヒ2世と呼ばれてるらしい。しかしフリードリヒ2世で検索すると1712年生まれのプロイセン王が出てくるけどな。
聖フランチェスコの一回り下の年齢。ってことはほぼ同時代を生きた、ってことやな。
1194年 フェデリーコ生まれる。(頼朝が征夷大将軍になった2年後)
このフェデリーコ出産の時のエピソードがものすごい。
赤髭皇帝フリードリヒが亡くなり、神聖ローマ帝国(現在のドイツあたり)はその子ハインリヒが嗣いでいた。で、その皇妃コンスタンッァは(イタリアの)ノルマン王朝後継者。二人の間に子ができれば強大な権力がふるえる。しかしそれは教皇やイタリアの諸自治市などにとってはたまらない。
コンスタンッァは結婚した時30代。当時とすれば姥桜。またこの出産の時期は40代。当時は既に初老。だから反対派からは懐妊そのものが信じられていなかった。
そのため、本当に妊娠・出産を周囲に納得させるため、旅の帰りにイエージの街で産気づいた時、中央広場にテントを張り、その中で出産した・・・
居城はシチリア島のパレルモにある。
最初はカルタゴが作った。
BC3C ローマが進出
西ローマ帝国衰亡後
ヴァルダン族が支配
ゴート族が支配
6C 東ローマ帝国が支配(ビザンチン文化)
9C サラセン軍が支配(イスラム文化)
11C ノルマン(ヴァイキング)が支配
それらの文化が融合し、国際化した都市だった。
土地の言葉だけでなく、ギリシャ語・ヘブライ語・アラビア語も通用した。
1197年(フェデリーコ3歳)父ハインリヒ死去。母コンスタンッァは皇帝権からすれば宿敵の教皇イノケンティウス3世に庇護を求め、教皇は絶好機として約束し、コンスタンッァの死後も守る。
そして教皇庁から教師団を送り込む。
4歳になったフェデリーコに教師団は驚嘆。全方位の天才であり、詩作も楽器演奏も武術も、また語学の天才でもあり、アラビア語とギリシャ語には特に堪能になった。
1210年 教皇イノケンティウスはフェデリーコを皇帝に推戴。17歳。(イノケンティウスがフランチェスコ修道会を認可した年)
1212年 教皇がフェデリーコに「神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝となり、シチリア(イタリア)は息子ハインリヒに任せる(つまり強大にならないように)」などいろいろ条件を飲ませる。
1214年 ジョン王の英国軍と仏軍が戦い仏軍勝利。負けて帰ったジョン王が国内の領主連合から「マグナ・カルタ」を飲まされる。そしてかつて神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝だったオットーの没落が徹底的に。そこでフェデリーコがアーヘン大聖堂で勝利のミサをあげる。その時に「聖地を異教徒から奪回するために、十字軍の先頭に立つ」と宣誓するが・・・
結局ドイツは顧問団を派遣し、封建制・領主制を維持したまま統治。自分はシチリアに戻り中央集権的な統一王国を築いていく方向に動いていく。また、のらくらと十字軍には参加せず。もともと、宣誓も演技だけだったんじゃ・・・アラビア語にも堪能だったし、サラセン軍部隊とかも作ってるし、イスラムの情勢にも通じていたと思われる。
で、時代としてはこの後の世界の趨勢は統一的な王国(仏・西など)が発展し、分裂していたイタリア・ドイツが遅れていったことから、考えている方向は当時としては正しかったのではないかと思われる。
1228年 教皇グレゴリウス9世の「十字軍か、さもなくば破門」という恫喝で、たぶんいやいや出発するが、本当に疫病で軍団が崩壊し戻ってくる。ところがグレゴリウスは「俺に逆らった」と勘違いし、破門に。
しかし皇帝派が教皇派を攻撃し、教皇はローマから逃げ出す。
病気が治ったフェデリーコはまた十字軍として出発。しかしパレスチナでは、前回、裏切って帰還した、と噂が流れていたため、他のキリスト教軍の協力が得られなかったどころか、キリスト教軍はイスラム君主アル・カミールに対し、「軍の支持を得ていないからいつでも捕虜にできる」なんて密告までしていた。(なんちゅうやつらや・・・)
ところがフェデリーコはアラビア語が書けたし、しゃべれたし、イスラム文化に敬意を持っていることがすぐにアル・カミールには分かったので、交渉のテーブルにつき、戦うことなく講和でき、エルサレム、ナザレ、ベツレヘム、シドンを譲渡することに同意した。(すげ・・・)
この後もフェデリーコとアル・カミールは肝胆相照らす仲になった。
1230年 グレゴリウスはしかたなく破門解除。(そりゃこれだけ功績があったんやからな)
なおフェデリーコは人間に生得的な言葉(音声言語)があるかどうかを実験するために、数百人の新生児を集め、養育係には言葉(音声言語)の使用を禁止した、という話がある。
なお、結局フェデリーコのイタリア統一はならなかった。
著者の上げる、フェデリーコが過小評価した点。
1.自治都市の経済力。
2.カトリック教会の庶民に対する影響力。
特に2.について、フランチェスコ会の影響力が大きかった。もちろんカトリックの多くは、まあ「腐敗」していたと言ってもいいけれど、またフランチェスコ会の内部でも「厳格派(清貧と信仰)」と「穏健派(管理が必要)」の対立はあったのだけど、「厳格派」の人々に対する庶民の崇敬で、全体として修道会、そしてカトリック信仰への信頼が大きくなっていたのでは。
1250年 フェデリーコ死去
鎌倉仏教の祖師が生きていた時代と重なる
法然 1133〜1212
栄西 1141〜1215
親鸞 1173〜1262
道元 1200〜1253
日蓮 1222〜1282
一遍 1239〜1289
皇女ガラ・プラキディアの物語(「物語 イタリアの歴史」より)
物語 イタリアの歴史 II 藤沢道郎著