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2015年08月22日

皇女ガラ・プラキディアの物語(「物語 イタリアの歴史」より)

「物語 イタリアの歴史」



第一話 皇女ガラ・プラキディアの物語

Wikipedia テオドシウス1世の項目を見ると
ガラ・プラキディア
370年〜375年 - 394年
で、テオドシウス1世の後妻になってる。で、生まれた女の子がガッラ・プラキディア。ややこしや・・・

 4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。ってことは、イタリアが中心では無くなった、ということやな。ローマ帝国が東ローマ帝国と西ローマ帝国とに、割りとはっきり別れたのは、395年のテオドシウス1世の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになってから。

 で、西ローマ帝国は480年頃に滅んだとされるから、ガラ・プラキディアは、その少し前の時代を生きた人。

 私は、昔、「ローマはなぜ滅んだか」弓削達著(講談社現代新書)ってのを読んだのだけど、なぜ滅んだのかさっぱりわからなかったです。

 でも「物語 イタリアの歴史」の藤沢道郎さんの説明は、私にとってはめちゃめちゃわかりやすかったです。

 曰く

 アジアの遊牧民フン族が西へ移動し始めた。西ゴート族は対岸のローマ帝国守備隊に助けを求めた。「手を振り、泣きながら、船橋を架けて渡してほしいと哀願を繰り返した」という状態だったが、最初は断り、皇帝の許可が後に出たが過酷な条件がついていた。
 武器をすべて引き渡し、子どもを全員ローマ帝国に差し出すこと。
 また帝国官僚の大小のボスたちが、西ゴート人の財産を洗いざらい収奪し、頑丈な若者や美しい娘を奴隷にし、他のゴート人は身ぐるみはいで飢えと寒さの中に放り出した。
 それで憎悪が蓄積し、ついに暴動となり、もともといたゴート人奴隷も呼応し、反乱を起こした。この反乱は当時スペインに隠棲していたテオドシウスが鎮圧したが、このような事件が続き、かつもともとのローマ市民は「パンとサーカス」で骨ぬきになっており役に立たないようになっていた。実質、軍隊などでも役に立つのは蛮族しかいなくなっていた。しかしローマ市民はプライドだけは高く、蛮族に偏見を持ち、差別していた。(なんか現代日本でもありそうな・・・)

 当時、勤勉で役に立つ人々というのは蛮族以外にはキリスト教徒しかいなかった。
 392年、テオドシウスがキリスト教を国教と定めたのは信仰があつかったというわけではなく、キリスト教徒を利用するためにそうするしかなかったため。(しかし・・・そうなればそうなったで、原理主義的な一群が古代ローマの宗教施設等を破壊してまわったと。これまた最近どこかであるよなあ・・・やっぱり原理主義的なのは嫌だなあ・・・)

 なお、キリスト教の公認はコンスタンティヌス帝の313年。「ミラノ勅令」による。

 で、なんやかんやあって、結局は西ゴート人に滅ぼされた、ってことらしい。



 
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8月22日(土曜日) 天満大池公園(加古郡稲美町)


 おはようございます。

 なんだかいつ降ってきてもおかしくないような空模様です。


天満大池公園(加古郡稲美町)

「ひめじのいいとこ50選」の姫路城周辺の施設紹介が終わり、私の知ってるスプリング8や、西はりま天文台が終わり、さて、もっと職場(加古郡播磨町)に近いところにある遊びに行ったりできる施設や神社仏閣を紹介しようと思ったけど、いやあ・・・なかなか探すのがたいへんです。

 きっとさがせばいろいろあるのでしょうが、「無名」というか「有名では無い」・・・・

 いやあ、だいたい神戸在住の私にして、自治体としての「播磨町」「稲美町」の存在を知らなかったんじゃないかな・・・
「明石の西や北方面が、昔、印南と呼ばれていた」
「塩屋から西は、昔、播磨と呼ばれていた(東は摂津。で、摂津までは「人の住むところ」で、播磨は「辺境」「人外魔境」と考えられていた)」
というのは知ってましたが。

 で、ちょっと無理矢理にでも「見どころ」を探してみると。

天満大池公園

 Wikipediaによると

兵庫県加古郡稲美町六分一1179にある天満大池を整備した公園。

 まずもってこの「六分一」という地名が面白い。1/6?

築造は大和時代後期である675年(白鳳3年)頃と推定され、兵庫県下で最も古いため池

675年頃と言うと
672年に「壬申の乱」が起きてる。

古文書には、原形となった岡大池(蛸草大池)の記録が残る。 

 海からは少し離れていると思うのだけど、「蛸草」という地名が今もある。
 当時は海岸線がもっと陸地側に入ってたのかな?

 祭りの時は池に神輿を投げ込み氏子も池に入って行きます。
 
 また絶滅危惧種のアサザが生えてて、観察会なども開かれてます。

posted by kingstone at 06:38| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月21日のつぶやき
































posted by kingstone at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする