読書メモ
17〜8世紀のイギリスで、ジェントルマンは海外で冨を蓄積しようとし、食いつめた庶民は、プランテーションでの労働力としての移民をし、19世紀初頭、フランスの社会学者デクタルは「イギリスでは、[庶民でも]家族の一員が海外に出ていないというようなことはまず無い」と驚嘆している。
プロモーターが支度金や渡航費や生活費を出し、アメリカ大陸やカリブ諸島でのプランテーションで(4年間とか)強制労働すると約束して渡航する。
しかし土壇場になって「誘拐された」と主張して渡航をやめる者が続出し、1682年にプロモーターを守るための枢密院令が出ている。
逆に言うと、「甘言にのせて」「誘拐」あるいは「だまして」つれていく者が横行していた、ということ。
(これ、現在、中国やアジアから日本への「研修生」とかでも実際に起こっていることじゃないか?)
定住権を与えたくないから1年未満の雇用(今の日本と一緒やなあ・・・)
サーヴァント(家事手伝い?しかし兵役も含める)
ライフサイクルサーヴァント(ライフサイクルの中で一定期間サーヴァントをする)
農業サーヴァント
レイバラー(通いの労働者)
徒弟制
なお徒弟になるには「徒弟一時金」を払う必要があった。大工だと10ポンドから20ポンド。靴工だと5ポンドから20ポンド。つまりそれだけ払って職業教育を受ける、という面もあった。
なお、これはドイツの場合の徒弟だが、
「市民の自治」
"一人前の手工業者になるためには、まず徒弟として親方の家に住み込み、無給で 7年間辛抱し、家事の手伝いや仕事場の掃除その他の雑用をしながら奉公する。 この間は一切技術は教えてもらえなかった"
1700〜1860の「親元離れ」の年齢(男子平均)徒弟に入る年齢
(P57の表2-1)
兵士 17.0
石工 17.0
れんが積工 15.2
かじ屋 15.2
くつ職人 14.6
農業サーヴァント 14.5
パン屋 14.4
船員 13.2
煙突掃除 10.7
(煙突掃除の場合、体が小さいほうが働かせやすいということがあったみたい。「チョコレートの世界史」に19世紀半ばジョーゼフ・ロウントリーたちが「少年労働(煙突掃除の少年使役)の禁止」の活動をしていたことが書かれていた)
旧救貧法
子どもの稼ぎが増えると家族手当の
給付額を減らされるので、早くから家
の外に出す傾向があった
1834 新救貧法
家族手当が廃止されると、子どもを
より長く手元に置くようになった
雇用市(法定市)(19世紀)
サーヴァント希望者がずらりと並び、雇用したい人が声をかけて交渉する。成立すれば半クラウンか半ソヴリンを渡す(神のお金)人身売買の市みたいなもの。泥酔と不道徳(売春)がはびこる、と言われていた。
しかしこの時以外休みは無かった。ある意味、盆と正月みたいなものか。またサーヴァントの間は結婚できなかったからそのはけ口でもあったろう。
18世紀、軍隊に入ることが刑罰とみなされていた。また誘拐されるように連れて来られた人も多かった。そして戦争が終われば大量の失業者となった。