※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2015年06月28日

2015年06月27日のつぶやき










































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2015年06月27日

海街diary 綾瀬はるか・長澤まさみetc.



 鎌倉の古い家を舞台にした4姉妹の物語。

 「古い家」「喧嘩しながらも仲の良い、3姉妹とわけありで増えた末っ子」
 まあ、ファンタジーっちゃファンタジーですが・・・
 三丁目の夕日みたいな懐かしさなのかな。
  
 綾瀬はるかのメーク(?)が苦労している長女っぽいし、離れて暮らす母親の大竹しのぶも「普通のそれらしいおばさん」っぽく見えるし、メークさん、すごいっすね。

 広瀬すずがサッカーチームで活躍する場面があるのですが、ほんまにある程度ボール操作ができるみたい。Wikipediaを見ると、得意なのはバスケットボールみたいですが。最近の子って、少し運動が得意だと、あの程度のボールさばきはできるんだろうか?

 しかし・・・私の頭の中は、広瀬すずを見る度に例の
「照明さん、音声さん」
発言を思い出してしまうと言う事態になってましたね。
 やっぱあの発言は強烈やな・・・
 まあ、16歳・17歳の子の発言ではあるけれど。

 まえだまえだの前田旺志郎がお兄ちゃんになってました。


ラベル:映画
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6月27日(土曜日) 阿江与助(あえ[あこう]よすけ)(「播磨ゆかりの50人」より)


 おはようございます。

 雨上がりの曇りだったのが晴れてきました。
 涼しいです。


阿江与助(あえ[あこう]よすけ)
(?ー1634)

 「播磨ゆかりの50人」と

竜野・社 闘龍灘と播磨平野の城館

を参考に。

 阿江家に養子で入った。阿江家は土地の大庄屋なんだけど、赤松氏の流れをくむんだって。
 で、最初は当時の姫路城主木下家定の名で1594年に加古川の闘龍灘の開削に成功。
 闘龍灘は加古川の中の奇岩で有名。鮎の解禁が早く、季節になると毎年神戸新聞に鮎解禁のニュースが出る。ここだと友釣りはしにくいから、たぶんドブ釣り(毛針釣り)。
 で、それがどのあたりかと言うと、今、兵庫教育大のあるあたりで、私たち瀬戸内海の近くに住むものにとっては「ものすごく山の中」というイメージです。そんな所まで舟で行ってたんですね。木下家定は年貢米の搬出のために掘削を命じたとのことです。

1594 加古川の滝野以南の水路を完成(兵庫教育大のあるあたり)
1604 竜野以北の水路を完成。
1606 佐治川の水路を完成。丹波本郷(丹波市氷上町本郷。兵庫県のど真ん中)までの通船が可能に。

 結局、何年も大土木工事に携わってはったんですね。


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2015年06月26日のつぶやき
































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2015年06月26日

6月26日(金曜日) 千姫(「播磨ゆかりの50人」より)


 おはようございます。

 雨です。


千姫
(1597ー1666)

 なんで千姫が「播磨ゆかりの50人」に入ってるんだ?と思ったら、千姫ってなかなか数奇な運命というか、いろんなことがあったんですね。

    曾祖父・織田信秀、祖母・市。

1597 父は2代将軍徳川秀忠。母は江(少し前の大河ドラマ主人公)
    つまり徳川家康がおじいちゃん。
1603 7歳で豊臣秀頼(豊臣秀吉の長男)に嫁ぐ。
1615 大阪夏の陣。(19際)家康の命で助けられる。
    この時、秀頼と側室の間の娘・天秀尼の助命をし、
    天秀尼は縁切り寺として有名な東慶寺へ。
1616 桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚
1617 本多家が播磨姫路に移封
   (池田輝政はもう死んでるけど、池田家はどうなったんだろう?
    なお、娘、長女勝姫は池田光政に嫁いでいる)

   で、姫路城に入り、播磨姫君と呼ばれるようになったって。
   ここで「播磨ゆかりの50人」に入ることになったわけね。

1626 30歳。夫、本多忠刻死去。本多家を出て、江戸城に入った。
    で、この時から大奥で力を持つようになったわけね。

 へえ、です。
 千姫なんて播磨と全然関係無いと思ってました。





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