著者桜井哲夫氏は、時宗寺院に生まれ育ち、現在、東京経済大学コミュニケーション学部教授。で、父上が亡くなった7年前から寺の住職もされているよう。(それまでも副住職としてはお寺の仕事もされてたのかな?)
私はもともと一遍上人についてはすごく興味がありました。遊行して各地で踊り念仏をして、ってことは
レイブみたい・・・
で、Wikipediaにレイブについて
「しかし、その大きな要素の一つであったドラッグの広範囲な使用や社会不安の原因となるといった観点から、政府や警察はレイブを危険視し、強力に取り締まることとなる。」と書かれているように、踊り念仏もそんなふうに見られていたみたいだし。
(でも、一度、テレビでどこかのお寺で、確か一遍上人からの伝統の念仏踊りというのを見たことがあるのだけど、すごくスローテンポで、これで法悦状態に入れるだろうか?と思ったことがある。アメリカの歌って踊るキリスト教会のなどを見ると、こりゃあ気持ちいいだろうなあ、と思うけど)
また、一遍上人がどうやって食べていってたんだろう、というのも興味ありました。
芭蕉と曽良の2人(デュオ)だったら、地域のスポンサーを見つけてそこをつないでいけば何とかなっても、集団(バンド)だったらたいへんだし・・・
しかし、とにかく私の手元に入ってくる情報は少ないしねえ。
でも、この本、題名はなんか昔の少年マガジンの記事みたいな感じだけど、すごく丁寧に資料を集めて、かついろんな説を比較したりしてわかりやすく書かれています。
まずびっくりしたのは、時宗(時衆)は今はそれこそ資料も手に入りにくいくらい信者数も少ないけれど、たぶん浄土真宗に信者が移動するまではものすごく大教団だったらしく、また江戸時代でも無茶苦茶権威があり、幕府の庇護も受けていたと。
これは少なくとも徳川家康の父や祖父が時宗であった(時宗の僧侶説もあるが、よくわからず、しかし信者であったのはほぼ確実)ということも関係しているかも。遊行上人と言えば、「乞食坊主」をイメージするのだけど、江戸時代はそんなものではなかったことがわかる資料がある。
1613年(慶長18年)3月11日の遊行34代燈外上人から
伝馬朱印(どこでも伝馬50匹、人足50人を無償で徴発できる権利)が与えられた これ、徴発される方にしたら、めっちゃ迷惑やったやろな。
で、大名でもこの遊行廻国を拒否できなかったとのこと。その接待をしなけりゃいけないから泣く泣く借金する大名もいたと・・・だから
1795年(寛政7年)に、幕府から時宗に対して、廻国にあたって藩の負担を軽くするようにという法令が出されている。
つまり、どれだけ負担が重かったか、ということ。
しかし遊行上人の人気は絶大で、
1744年(延享元年)磐城平藩(現福島県いわき市)での51代賦存の城西寺の滞在中、2月2日から11日までの賦算の枚数は36200枚。
(ってことは1日3000人強・・・で、きっと何らかのお布施というか寄付みたいなもののあったろうからそこで儲かる、みたいなこともあったのじゃないか・・・経費は相手持ちだしだし・・・)
一遍や時宗を取り上げた作品など
(本に出てきた版より手に入りやすい版をこちらには書いてます)
海音寺潮五郎「蒙古来たる」(文春文庫)
柳宗悦「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)
唐木順三「無用者の系譜」(筑摩叢書)
私も「身を用なきものに思ひなして」という言葉がよく頭に浮かぶのですが、これ在原業平の言葉(?)なんですね。上の無用者の系譜では、そこから捨聖の一遍、さらに妙好人、連歌師・俳諧師及びデカダンの世界を論ずる、という構成をとっているそう。
吉川清「時衆阿弥陀教団の研究」
この吉川清さんは時宗の僧であり、フォービズムの画家でもあったとのこと。
遊行寺宝物館で特別展が開かれたりしてます。
時宗に関するその他エピソード五来重の「高野聖」の中で室町期(後期高野聖)には
高野聖はすべて時宗の聖になっていた、と述べられている。
柳田国男「毛坊主考」一服していた小さな農家に不相応に大きな
仏壇があったので尋ねると一緒にいた人がこの家は
お寺ですと答えた。そこの主人は毛が長かった。そこで
柳田は「ははあ、これが毛坊主というやつか」と思い当
たった。
引用文がありますが、要するに普段は農家だけど、人が亡くなると袈裟を来て、鐘を打ち鳴らし、経をよんで弔う。他の百姓よりは一段低く見られていて(他の百姓と)縁組みはできない、とのこと。
「客僚」合戦に負けたり、責任や被害からまぬがれるために
逃げ込んだ人に白袈裟を与えてにわかに出家した者。
(「縁切り寺」と呼ばれた徳川山満徳寺も)
遊行寺に逃げ込んで来た浪人に楊枝削りをさせて、
彼らに阿弥号を授けた。
(いわゆるアジールとしての役割?)
出雲のお国は時宗であったという説がある。
京都の出雲路出身。
ここは京都北部にあり、大和族侵入以前は出雲族の
居住地であったが、お国の当時は大陸・半島からの
帰化人あるいは戦争の敗残者たちの集落地。
そこに時宗の沙弥も居住して和讃念仏や踊躍念仏で
生計を立てていたのではないか。
「陣僧」戦場におもむき、死者を弔い、死者の遺体処理までも
担当する。また治療活動にも従事し、のちに医者になっ
たものも多い。そして敵・味方なく行動し、またそれが
認められた。だから諜報活動に使おうとする者もいたら
しく、第15代自空上人が1399年に「それはやっちゃだめだよ」
というお触れを出している。またその中で
「戦場で身の安全を守るために武具を身につけることも
あろうが、敵を殺し傷つけることを目的に武器を持つ
ことは絶対に許されない」
とも書いてある。
網野善彦「無縁・公界・楽」
鎌倉新仏教は「神祇不拝」の立場をとるが、誰一人、神々の存在を否定していなかった、という指摘はなるほど。
例えば親鸞上人が「念仏を千回唱えよう」と思って唱え始めたけど、「あっ、それは間違い」と思ってやめたって話が歎異抄にあったと思うけど、それは「念仏」を否定しているのじゃない、というのに近いかな。
網野は、鎌倉新仏教は、新しい考え方によって商業、金融に聖なる意味を与える方向で動き始めていたのではないか、とする。
室町時代以降、寺は金融と勧進で成り立っていたし。
なるほど。たぶんそれまでは「卑しめられて」いたろうし。そもそも死者を弔うということが「けがれ」とみられ弔いに関わる僧は「遁世僧」と呼ばれたわけだもんな。
一遍上人絵伝から一遍上人の一生 一遍上人絵伝は一遍が亡くなった10年目(1299)に成立。かなり早い段階だから「宗祖」の物語という点はあっても正確な部分も多いのではないかな。(例えば仏教経典だと、シャカ入滅後200〜300年以降の成立とかだし、それと比べるとね・・・・)
またすごくお金(手間・ひま・技術)がかかったものであるので、すごいスポンサーがついていたであろうことが推測される。また一人の名人が作ったのではなく、工房で作られたと推測される。
1238(?) 一遍は伊予(愛媛)の武士、河野通信
(こうのみちのぶ)の子、道広の次男として生まれる。
通信は源義経に味方し、河野水軍として屋島の合戦・
壇ノ浦の合戦での勝利に貢献。幕府部内で力をもった。
しかし、1221の承久の乱で通信の子、通俊が朝廷方に
つき、負けてしまい没落。
子の中で生き残ったのは通久と通広の2人のみ。
通広の次男である一遍は、母が10歳の時に亡くなり、
出家し随縁(ずいえん)と名乗った。
1251(13歳)九州太宰府の浄土宗西山派・聖達の元へ
(聖達は父通広(僧名・如仏・・・お父さんも僧やったんや)
が西山派の証空上人のもとで学んだ時の仲間)
1263(25歳)父が亡くなったので故郷に戻る。
僧でありながら武士でもある、という立場で
妻も娶った。(当時このような例はごくふつう)
1270(32歳)太宰府の聖達のもとへ。
このきっかけは諸説あるが、遺産相続争いに巻き
込まれ、何者かに切りつけられ、ケガを負ったが、
相手の刀を奪い取って撃退した。相手は自殺した、
とのこと。それで空しくなったというのが大きいよう。
しかし・・・強かっってんね・・・
1271(33歳)信濃善光寺へ 「二河白道の喩えの図」
1273(35歳より)四国の修験道に(というかお遍路か)
1274(36歳)出立の図(大阪四天王寺から高野山を経て熊野へ)
四天王寺で一遍と名乗り始める
お札を配り始める。この時「決定往生六十万人」の
文字が既に入っていたか否かで論議があるとのこと。
ちなみになぜ「六十万」かというと本当は「一切衆生」
と書きたいところだけど、それだと荷が重過ぎるし、実現
不可能。だから実現できそうな目標を掲げる、ということ
であるらしい。それでも60万人って多い、と思ったけど、
1日100人に配れば、1年ざっと30000人。10年で30万人、
20年で60万人・・・確かに実行できそうだ。
で、実際は一遍上人が亡くなった時、だいたい25万人に
配ったのではないかと推測されているそう。
熊野で僧にお札を渡そうとしたら
「今は信ずる気持ちが起こらないので受けられない」
と断られあわをくってしまう。しかし
「信心がおこらなくても受け取って下さい」
と一遍は押しつけた。
この事件がショックだったようであれこれ考えはったわけ。で、
「信不信を選ばず、浄不浄をきらわず」にたどりつくと。当時の不浄は死者に関わることとか、肉食・淫欲・ハンセン氏病とか・・・
で、そういう話になると
聖フランチェスカを思い出すのだけど、聖フランチェスカは(1182年生まれ(1181年説もある)〜1226年死去)だから一遍のほんの少し前、入れ違いに亡くなってる方なんよね。
九州の武士を尋ねた時のエピソード
武士は念仏札を受け取って一遍が帰ってから周囲の客人に言った。
「この僧は日本一の狂惑のものかな。なむそのたふと気色そ(この僧は、日本一ひとをまどわす者だ。何かもの申したいという様子だった)」 客がなぜそんな怪しい者の札を受けたのだと問うと
「念仏には狂惑なきゆえなり(念仏には、うそいつわりなく、ひとをまどわすところなどないからだ)」かっこいいな。
「人」じゃないんだよね・・・「運用」でなんとかしようとしたらいけないんだよね・・・
踊り念仏への非難に対して
はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの のりのみちをば しる人ぞしる非難していた重豪の返歌
心ごま のりしづめたるものならば さのみはかくや をどりはぬべき一遍の返歌
ともはねよ かくてもをどれ こゝろごま みだのみのりと きくぞうれしきある僧が「心こそ大切だ。外見などどうどもえいいでしょう」と述べた時
こゝろより こゝろをえんと こゝろえて 心にまよふ こゝろなりけり1282年(44歳) 鎌倉に入る。執権北条時宗に会う。
(でも警備兵に追い払われたりしてる。
なんせ乱行(女性を伴うのは乱行)団体だし・・・)
この時、踊り屋を建てて踊り念仏をし、紫の雲が立ち
こめたり、花が降ったりしたというが、それに対し一遍は
「花のことは花にとへ。紫雲のことは紫雲にとへ。一遍知らず」 と答えた。(カッコええ)
さけばさき ちればおのれと ちるはなの ことわりにこそ みはなりにけれ1285年(46歳)山陽・美作国一宮神社(現在の津山市一宮中山神社)
に参拝した時に、一行の中に「けがれたるもの」がいる
という理由で、神社の中に入れてもらえなかった。
外に踊り屋を作った。
あとで、宮司の夢などで一遍たちは入れてもらえたが、
絵伝では一行の中の非人たちは入れてもらえなかった
様子が描かれている。
参考 中世ヨーロッパで卑しい職業とされたもの
(「もうひとつの中世のために」ジャック・ル・ゴフ)
「血の禁忌」から「肉屋」「刑吏」「外科医」「床屋」「兵士」
「ケガレ・不純」から「革なめし工」「料理人」「洗濯屋」
「貨幣禁忌」から「高利貸」「両替商」
「キリスト教倫理」から色欲の場としての「宿屋」「風呂屋」
1289年(50歳)観音堂(兵庫県神戸市兵庫区。現在の真光寺)
で亡くなる。亡くなる前に持っていた経は書写山の僧に託し、
自分の書いたものなどは焼却させた。
(書写山は姫路市。今の円教寺のあるところ。なおもうすぐ公開される
映画『駆込み女と駆出し男』(縁切り寺の話)のロケ地)
こちらのエントリの下の方に現在の真光寺の画像もあります。
清盛ウォーク(途中退場だけど)播州法語集(一遍の語録)より
又云、念仏の機に三品あり。上根は、妻子を帯し家にありながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつといへども、住所と衣食とを帯し、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。我らは下根の者なれば、一切をすてずば、さだめて臨終に諸事に著して、往生を損ずべきものなり。 自らを(まあ複数形だけど)下根と言ってるところがいいかな。