おはようございます。
家の南側の窓から見たら雲がびっしり、北側の窓から見たら雲はほとんどなし。
ってことは晴れでいいか・・・
八重むぐら茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり
こちらのブログに写真がありますね。
「八重むぐら」春のよき日にもういかにも「庭に生える雑草」という趣で、どちらかというと「荒涼とした」という雰囲気を伝えたいんだろうな。
や−ど 【宿・屋戸】名詞
@家。家屋。
A戸。戸口。入り口。
B庭。庭先。前庭。
C旅先の宿。▽一時的に泊まる家のことをさす。
D主人。あるじ。
この場合、「旅先の宿」という意味ではなく、「自分の家」のことかな。
解釈
「八重むぐらが茂ってわが家は荒涼としている。人の姿も見えない(寂しい様子)ほどで、(冬に向かう)寒くて夏より寂しくなる秋が来てしまった」
恵慶(えぎょう、生没年不明)
平安時代中期の日本の僧、歌人。
恵慶法師とも。中古三十六歌仙の一。
986年花山院の熊野行幸に供奉した記録がある。
なお、Wikipediaには恵慶は播磨国国分寺に講師として行ったことが書いてあります。その国分寺はどこだろうと調べてみるとWikipediaにもありました。
播磨国分寺跡 兵庫県姫路市御国野町国分寺
なるほど。住所がまんま「国分寺」なんだ。
場所としては「JR神戸線 御着駅から、北西へ徒歩約7分。」と書いてあるな。
一度、行ってみよう。
もずらいとさんのコメント
八重むぐら茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり
>「八重むぐらが茂ってわが家は荒涼としている。人の姿も見えない(寂しい様子)ほどで、(冬に向かう)寒くて夏より寂しくなる秋が来てしまった」
>この場合、「旅先の宿」という意味ではなく、「自分の家」のことかな。
この歌は元々拾遺集に収められたもので「河原院にて荒れたる宿に秋来たるといふ心を人々よみ侍りける」と詞書きがあります。河原院というのは「陸奥の」の河原左大臣の邸宅で,庭園がウリだったそうですが,この歌を詠んだ頃には死後百年ほど経過していて庭も家も荒れ果てて,しかし,清原元輔らが集まる「歌人サロン」のようになっていたそうです。ですので「自分の家」ではありません。
八重むぐら茂れる宿の寂しきに → 自分の家でない以外はkingstoneさんの解釈でほぼ合っていますが,最後に接続助詞(場所の格助詞という説もある)の「に」が下の句との関係で重要になります。
人こそ見えね → 「人」+係助詞「こそ」+「見ゆ」の連用形+打ち消しの助動詞「ず」の已然形(係り結びなので)なので「こそ」の係り結びの原則どおり「人こそ見えないけれど」と逆接の強調になります。
秋は来にけり → 「秋は」「来に」はいいですね。「けり」は回想の助動詞ですが,伝聞,過去,現在を問わず「今気づいた」「そういえばそうだ」という気持ちが含まれています。
ですので「幾重にも葎が生い茂るこの宿に(or だが),訪れる人はいないのだけど(そうだ,そういえば)秋は訪れたのだなぁ」という歌です。もずらいとさん、どうもです。
>「河原院にて荒れたる宿に秋来たるといふ心を人々よみ侍りける」
>清原元輔らが集まる「歌人サロン」のようになっていたそうです
荒れ果ててたところが歌人のサロンって面白いですね。
しかし、「みんなが集まる場所」ってなかなか探すのがたいへんだもんな。
>「人こそ見えないけれど」と逆接の強調
私は「順接」かと思ってました・・・
「人が来ないくらい寂しい(それにぴったりな)秋」という感じで。
恵慶法師は「秋は人がやってくるものだよ」みたいなことを前提として、逆接にしたのかな。
>「けり」は回想の助動詞
そうなんですか。
私は言わば英語で言う「現在完了」とか「過去完了」になるのかと思ってました・・・
posted by kingstone at 06:56|
Comment(1)
|
TrackBack(0)
|
よしなしごと
|

|