著者は日本古代史の研究者で明治学院大学教授。
これは一説かもしれないけど、稲作文化が朝鮮半島から入って来て弥生時代を作った経緯が面白かったです。
もともと箕子(きし)朝鮮というのが朝鮮半島中部から北部に広がっていた。(中国の史記によると紀元前1100年に、殷王朝の王族の箕子が、現在の平壌のあたりに国をたてたとあるそう。でもこれは伝説みたいなもんらしい)紀元前4世紀までには有力な小国家ができていたことは確か。そして紀元前190年頃に、中国の衛満(えいまん)という豪族が1000余人の軍勢を率いて箕子朝鮮を滅ぼしたことは確か。それでできたのが衛子朝鮮。
で、衛子朝鮮の動乱で国を追われた農耕民が南下したのだけど、当時朝鮮半島の南にあった小国家群の人々に受け入れられなかった。そこでより南のたぶん当時としては未開の地、日本に渡って来た、と。そこで稲作が日本に伝えられたと。もちろん中国南方からの伝来もあっただろうけどね。
なんか途中の地で受け入れられず、もっと先まで行かざるを得なかった、というあたりがすごく面白い。
で、米が伝来した頃はあまりお酒も作られなかった。たぶん米の収量も多くなかったろうし。ところが首長もみんなのご機嫌をとらなきゃいけないわけで、みんなが「もっとお酒を飲みたい」ということで、米の収量も増やし、酒つくりも盛んになっていったと。
これ、先日読んだ椎名誠の「メコン・黄金水道をゆく」にラオスの人のことだったか、彼の地の人は日本人みたいにしょっちゅうお酒を飲むことはない、みたいな記述があったけど、ひょっとしたらお酒つくりにまわせる食料がそれほど無い、ということもあったのかもしれない。
平安時代は、貴族は一日二食(それも12時頃と午後4時頃・・・)だった。
でも、夕方から宴会で食べ、飲み続けていたみたい。この頃はなかなか庶民まではお酒は回ってこなかったのかな?
室町時代になって、造り酒屋が出てくる。そして庶民も「いいお酒が飲みたい」ということで借金してもお酒を飲みたいということでお金を貸す土倉が出てくる。(しかし、今の消費者金融みたいに個人に貸したのかな??)で、どんどん借金が増えてくる人もいるわけで、そこで「徳政一揆」を起こすようになったと。そういや室町幕府は土倉からの上納金みたいなものが支えていた、とかいうのを読んだことがある。
で、いいお酒(清酒)が京都や、まただんだんと灘五郷などで作られ、江戸時代は「下り酒」として江戸で好まれた。18世紀末の老中、松平定信が贅沢の禁止を旨とする寛政の改革を行った時、上方からお酒を運んで来るのは無駄と考えて、しかし「濁り酒で我慢しろ」というのは無理なので、寛政2年(1790年)に武蔵国と下総国の11軒の酒屋に米を貸し与えて上質の酒3万樽をつくるように命じた。これが「御免関東上酒」。しかし品質は劣っていたので、「下り酒」を阻止することはできなかったとか。でも安いお酒として飲まれ、この技術が関東から東北に広まっていったそう。
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