1991年3月10日刊
「動物行動学」の本?「社会生物学」?
基本はドーキンスの「我々のこの体は利己的遺伝子が自らを乗せるために作り上げた乗り物(ヴィークル)である」ということの解説というか竹内さんの感想?
しかし動物行動学にしろ社会生物学にしろ、データの収集は科学だけど、最後の結論(なぜそういう行動をとるか)が、めちゃ面白いけど科学にはなりきってないような気はするな・・・
副題の「遺伝子と神について」というのはダーウィンの進化論から始まり、科学陣営(?)とキリスト教福音派とかファンダメンタリストとのあれこれなんだけど、そこはあんまり深くは突っ込んではらない。
私なんか「人型の神が最初に全部決めて全ての生物を作った」とかより、「様々な偶然の結果、単なる非生命の物質からも、それぞれの生物が進化し今の姿になった」ことに「神の意志」を感じて感動するんだけど、そんなのんびりしたことを言っていられるのは日本人だからかもしれない。
ダーウィンも「種の起源」を書く時相当びびってたそうだし。しかしそれを一読、衝撃を受けたトマス・ヘンリー・ハックスリーがすぐに送った手紙の一節。
「悪口と誤解があなたを待ち受けていると思いますが、そんなことを気にかけないで下さい。ほえかかる犬に対して、あなたに代わって立ち向かおうとしている、けんか好きの友人がいることをおぼえておいて下さい。私は、爪と牙を研いで待ち構えています」
う〜む、ダーウィンは心強かっただろうか・・・それとも「困ったな」と思ったろうか・・・
で後ろの方に出てくるけど、ドーキンスもすごく鋭い論を展開するのに、こと人間に話が及びそうになると、ピタッと口を閉じる印象があるそう。それも著者は「宗教的圧力(もちろん見えない形での)」であろうと推測してはる。
デズモンド・モリスが「裸のサル」で書いた宗教に関する部分について書かれたところ。
モリスはそのような西欧社会の中で『裸のサル』を著した。これは彼本来のキャラクターに加え、大学とつながりをもっていないことや彼が学術的評価を期待していないことなど、様々な条件に支えられて実現した本なのである。この本の中で彼は、宗教についてこう言い切っている。
「宗教活動とは人間の大きな集団が集まってきて、ある優位な個体をなだめるために服従の誇示を何度も、しかも長々とおこなうことであると結論せざるをえない。この優位個体は文化が違えばさまざまな形をとるが、つねに無限の力をもつというのが共通する要素である。ある場合にはそれは他の種の動物の形態、あるいは架空の動物の形態をとる。ときにそれは、われわれの種の賢明な祖先として描かれる。また、ときにはより抽象化されたものとなり、単に"ある状態"ないしそのようなことばで示されることもある。こうしたものに対する服従反応は、目をつぶるとか、頭を下げる、施しを請う姿勢で両手の指を組合わす、ひざまずく、地面にロづける、さらには極端になってひれ伏す、といったことで構成されることが多く、しばしば悲しげなあるいは単調な発声がともなう。もしこれらの服従行動がうまくいけば、優位個体はなだめられる。けれど、この優位個体の力はきわめて強いので、その怒りがまたもえだしてくるのを防ぐには、このなだめの儀式を規則的な間隔でしばしばおこなう必要がある。この優位個体はいつもそうとはかぎらないが、ふつう『神』と呼ぱれている。」
共通のリーダーに服従することで仲間と認め合うというシステムは、ニワトリ、イグアナ、サルなど一応社会と呼ばれるものを作る動物にはよく見られる。彼らはその原理によって無駄な争いを避けることができる。モリスによれば、これと同じ現象が人間においては宗教という形をとって現われているというわけである。
シンガポールで1980年に行われた国勢調査で、女性が高学歴になるほど子どもを産まないというのがはっきりしたため、当時のリー・クワンユー首相が1983年の建国記念集会の演説で「結ばれよ。教育のある人々が結婚し、もっと子どもをもたねば・・・」という演説をし、また政府も対策を出す。例えば・・・
○結婚しないキャリア・ウーマンは不完全であり、むなしい人生を送るだけだ
ということをわからすようなドラマを国営テレビで放映する。
とかいろいろ・・・これが「大結婚論争」というのになっていったとか。こちらに少し詳しく書いてるかな・・・
「リー・クアンユー回顧録」-シンガポールにおける優秀な人材の育成・確保策とは
まあ・・・たいへんやな・・・
あと幸島のサル(芋洗いをすることで有名)の話も出て来る。で「百匹目の猿現象」がいかに嘘であるかがこれを読んだだけでもわかるけど、Wikipediaを読むと、なんだ「全くの創作であることをワトソン自身も認めている」のか・・・でも日本人で信じてる人、多いんじゃないか・・・
ラベル:本