当然だろうけど、Amazonで調べたら、同じ題名の本、いっぱい。
メモ。
法然
1133年美作久米郡稲岡庄の漆間館に横領使漆間時国の子として生まれる。
1141年預所明石源内定明に荘園を巡る争いで攻撃され、父は死ぬ。今わの際に
「敵人を恨むことなかれ」と言ったと伝えられている。
奈岐山菩提寺の観覚に4年間かくまわれる。
1145年比叡山延暦寺西塔の北谷持宝坊の源光のもとに。
1147年皇円のもとで東塔戒壇院にて得度。
しきりに「遁世」したいと言い出す。それは当時の比叡山が大衆といわれる
僧徒と貴族出身の学生との対立や、山門と寺門との対立で殺伐としていたから。
1150年西塔黒谷の叡空のもとへ。叡空は良忍の弟子。良忍は東塔の常行三昧堂の堂
僧となり、死者を回向する雑役(雑役!!)をつとめながら、不断念仏を修
め、23歳のときに比叡山を下りて、大原の里に隠棲し、融通念仏を開いてい
る。
黒谷も大原も「別所」といわれる。「別所」とは、朝廷に従わなかった東北
地方の蝦夷の俘囚たちを全国各地の山間地に封じ込めて監視したところ。他
に八瀬、北白川、鞍馬、花背など。俘囚は比叡山で僧侶に使役される雑人と
なっていた。
別所には国家仏教による保護と統制はなく、それゆえ自由かつ平等な信仰の
空間があったと考えられる。
う〜〜ん、この本では黒谷別所は西塔から八瀬にいたる山道の途中と書かれている。で瑠璃堂を過ぎた青龍寺となっているが、この
青龍寺と同じ??浄土宗のお寺ではあるけど、八瀬とかとは方角違いだし・・・
ここで法然房源空と称した。18歳。
叡空が「往生要集」を講じていて法然が反対意見を述べ、叡空が立腹し木の
枕で法然を打った。しかし数時間のちに叡空が法然のもとに来て
「法然が言うことは、天台大師の本意とするものであり、念仏の極意である」
と自分の誤りを率直に認めたとか。
1156年(保元の乱の頃)南都の学匠を歴訪。しかし南都北嶺は激しく対立してい
たので、最初、嵯峨にある
清涼寺(釈迦堂)に行った。そこの浄土教人脈に
頼った。
この南都遊学のおりに民衆の生活にふれた。この頃、既に民衆の念仏信仰
はあったらしい。
黒谷に戻り、永観(ようかん。南都で学び
永観堂の七世となる)が重視して
いた善導の
「観経疏(観無量寿経疏)」の称名の大切さを確信する。
しかし「無量寿経」には称名すれば阿弥陀如来により往生できるとあるが、
「五逆」と「正法を誹謗する者」は救われないとされている。
しかし専修念仏は「誰でも往生できる」とした。(それがええなあ)
「選択本願念仏集」から
「念仏は唱えやすいために、すべての人に通じる。ところが、さまざまな修行は行なうことができないために、だれにも通用するものではない。そこで阿弥陀如来は、一切の衆生を平等に往生させるために、難しい修行を捨て、筒単にできる称名念仏をとって本願としたのである」
「もし、仏像をつくることや塔を建てることをもって本願とするならば、それかできない貧窮や困乏の人は、往生の望みが絶たれることになる。しかし富貴の人は少なく、卑賤の人ははなはだ多くいるではないか。
また、もし智慧に富み、才能の高い人をもって本願とするならば、愚鈍や下智といった愚かな人は、往生の望みを絶たれることになるではないか。しかし智慧の深い人は少なく、愚痴の人は、はなはだ多くいるではないか。
もし、多聞や多見できる人をもって本願とするならば、少聞少見の人は往生の望みを絶たれることになるではないか。しかし、多聞多見の人は少なく、少聞少見の人は多くいるではないか。
また、僧侶のように持戒し持律できる人を本願とすれば、破戒や無戒の人は往生の望みが絶たれるではないか。ところか持戒持律の人は少なく、破戒無戒の人が多くいるではないか。
このように、諸行や善行ができることをもって、本願とするならば、往生できる人は少なく、往生できない人か多くいることを思い知るであろう。
そこで阿弥陀如来は、法蔵菩薩の昔、平等の慈悲の考えから、一切すべての人々を救うために、仏像や塔をつくり、寄進するなどといった諸行をもって往生の本願とはせず、ただ称名念仏の一行をもって、その本願としたのである」 う〜〜ん、めちゃめちゃかっこええなあ・・・
1175年。黒谷別所を去り、西山の広谷(現在の
金戒光明寺)に行く。この時、親鸞は3歳。
もちろん、今の金戒光明寺みたいなものはなく、遊蓮房円照(信西の子。
平治の乱の時、佐渡に流罪が決まったが、その後平清盛が台頭し、流罪
にはされずにすんだが、出家して広谷に隠棲した)の草庵にいたのだろう。
たぶん1176年。吉水に移る。現在の
知恩院の御影堂のあるところ。
もちろん今のような立派な建物は無かったろうし、どのくらいのものが
あったのだろうか?
なお1211年に流罪が赦免になった時には吉水は朽ち果てていたので、
大谷青蓮院に入った。
一部省略しつつ引用
当時の官寺とかは庶民は仏像を拝むことはもちろん、入ることもできなかった。庶民が参拝を許されたのは、庶民が自分たちの手で作った寺か、維持している寺。釈迦堂(清涼寺)、六角堂、空也の作った空也堂、六波羅蜜寺、皮聖行円が開いた革堂行願寺、清水寺など。縁日には多くの参拝者で賑わった。
吉水では、だれにでも門が開かれているばかりか、法然からじかに話しを聴くことができた。これは極めて画期的であった。
こうした対面による法話は、念仏聖が行っていたもの。念仏聖たちは「南無阿弥陀仏」と唱えながら、死者を回向したり、葬送したりしたりして庶民の信仰の支えとなっていた。
かれらのなかには、生活のために聖になった人が多く、念仏の教義的な裏付けは、きわめて希薄であった。いわば習慣として念仏を唱えながら遊行している人たちである。法然のもとには、こうした念仏聖たちが、真っ先に聞法(もんぽう)に訪れていた。 う〜〜ん、念仏聖、「生活のため」と書いてはるが、もちろん教義的裏付けは希薄であったのだろうけど、真っ先に聞法に訪れてはるんやよなあ。それまできちんとしたことを伝えてくれる人がいなかったのよなあ。ある意味、めちゃ「やる気」のある人たちだよね。
しかし・・・吉水でどうやって「たつき」をたててはったのだろう?官寺とかだったら荘園があるかもしれない。比叡山だったら荘園もだし、金貸しも相当やってたみたい。そういうことでお金もうけをしていたと思うのだけど・・・聞法に来た人たちが「こころざし」というか「お布施(??じゃないよな・・・)」というか、そういうものを出していたのだろうか・・・
1180年。以仁王、諸国に平家追討の令旨を発するが平家に敗死。しかし諸国に反平氏の
のろしがあがる。12月に奈良の東大寺や興福寺の衆徒が平家打倒に賛同してい
るので平重衡を鎮定のために派遣。重衡は東大寺と興福寺を焼き払う。
1181年。親鸞9歳で出家。平清盛死亡。
1184年。一の谷の戦いで平家は敗れ、平重衡は捕まる。京都の大路を引き回されて、
鎌倉に護送されることになったが、平家物語では「法然に会いたい」と言った
と。助かる道を尋ねる重衡に法然は
「末法濁乱の世で救いの手をさしのべてくれるのは、南無阿弥陀仏と仏の名を唱える称名念仏です。これは、どのように愚痴闇鈍な者であっても、唱えれば救われるのです。罪が深いといって、けっして卑下なさってはいけません。十悪五逆を犯した罪業の者であっても、往生できることには、いささかも疑いはありません」
法然の説諭に重衡は心から喜び、さらに受戒を求めると、法然は重衡の額に髪剃を当てるまねをして、授戒したのである。 東大寺と興福寺を焼き、大仏も焼失させた重衡でも往生できる、と言ったわけ。
1186年。秋。大原の勝林院に招かれて、大原問答。法然54歳。顕真が招いた。
顕真はたぶん1173年には大原に隠遁。しかし1190年には天台座主に
なっている。招いたと言っても専修念仏が天台宗門と立場を異にする
のではないか、ということを質すため。なお法然伝ではこの時にそう
そうたる高僧が列席していたとされているが証拠はなく、著者曰く、
「みんなそれほど暇ではない」
なお、聖道門と念仏門との違いを尋ねられての法然の回答。
「これらの聖道門は、みんな教義が深く、しかも利益にもすぐれています。これは人という機と、教えという法が相応すれば悟りを得ることは容易です。
しかし、私のような頑愚の者は、聖道門の器ではないために、ただ念仏の一門によるほかには、迷いの世界をはなれることはできません」
「私は、自分の力量の限界から念仏門を選んだもので、けっして聖道門のすぐれた人々の修行を妨げようとするものではありません」 そうなんよ。大学院とかでむつかしい勉強をしてる尊い方が、身につけることのできるものは様々にありましょう。私のような力量のものは、簡単にできる実践の道を選んだので、その方たちの学問を妨げようとするものではありません。
ところで九条兼実は、法然に帰依していたと有名ですが、実は病気直しの効験があると信じてのことで、法然の言いたいことは全然わかってなかったらしい・・・(笑)
1200年。吾妻鏡によると鎌倉二代将軍源頼家が、「黒衣をまとった念仏僧を嫌って
念仏を禁断した」14人の念仏僧を集め、黒衣をはぎとって焼き払った。
墨染めの衣を着るということは、ものすごいことだったのかな・・・
1201年。親鸞29歳。比叡山を下り、六角堂に百日の参籠。その後、法然のもとへ。
六角堂は聖徳太子が創建したものと言われ、聖徳太子は鎮護国家の仏教なのだけど、もうひとつの太子信仰があった。官製寺院の信仰や仏像の加護から閉ざされていて、しかも造寺や造塔、経文などを寄進するといった善幸をつむことができないために、極楽往生できないとされていた人々の中で広まった信仰。 なお、著者は女犯や性欲に苦しむ親鸞が救われた、という説に「あまりにも個人的」と斥け、もっと普遍的なものでは、と書いてはるのだけど・・・その「個人的」なことが「普遍的」なんじゃないか、と思うのだが・・・
1204年。比叡山の衆徒が専修念仏を停止するよう天台座主真性に訴えた。(法然72歳)
法然は「七箇条起請文」を出して防衛(?)結局、他宗の批判はしない、議論
は挑まない、むやみな教化はしない、などと誓わせられている。
これって・・・まあ宗教的なことだから、他宗がめちゃ腹を立てる、というのはよくわかるのだけど、ひょっとして経済的なこともあったのかな??思想・宗教的なことだけで宗徒が動くか??
1205年。法然は親鸞に「選択本願念仏集」の書写を許す。
奈良興福寺解脱房貞慶によって「興福寺奏状」が出る。
朝廷はまるくおさめようとしたが、興福寺は許さず、で結果が・・・
1207年。「建永の法難(承元の法難)」後鳥羽上皇の女房が安楽と住連と密通したと
して斬罪となり、法然は流罪となる。藤原定家の「明月記」にも出てくる。
(親鸞も流罪となったということだが、これは証拠としては覚如の書いたもの
しか無いそう)著者は「権力が宗教上の判断はせず、スキャンダルで断罪す
ることはよくある」みたいなことを書いてるけど、なるほど沖縄密約事件み
たいなもんか。
で、実は醜聞とかよりも、「五障三従」で救いの対象となっていなかった女
性に浸透していっていた、というあたりが権力にとって脅威だったのでは、
というあたり、そうかもしれんなあ・・・
なんとか教えを説かないことでとりなし、流罪を無しにしようという信空に対して。
「流罪に処されたことは、すこしも苦痛ではない。私は老齢の身であるから、娑婆の世界とは別離することになるが、どこに住んでいても死後に浄土で再会できることは疑ってはいない。
流罪を契機に念仏の恩恵に浴していない辺鄙な地方で田夫野人たちにすすめることは、私の念願であった。それかかなえられるのであるから、流罪は朝恩ともいうべきものである。
念仏は、どんな力や処罰でとめようとしても、とどまるものではない。なぜなら、衆生を救わんとする諸仏の誓いは、無限であるからである。だから、世間を慮って、『浄土三部経』や善導大師の教えの真意を隠すことはない」 西阿という門弟が「もう教説を説かれるようなことは、けっしてなさってはいけません」と言うのに
「たとえ死刑になったとしても、専修念仏の教法だけは申さずにはおれない」 もう、めちゃめちゃかっけえ。
法然の流罪の経路。
川船で淀川を下る。
播磨の高砂、室津。
讃岐の塩飽諸島。
讃岐小松庄の生福寺(ここは移転して高松の法然寺になったとも)
室津の遊女への言葉。
「遊女の身でなければ、生きていけないのであれば、その身そのままで念仏しなさい。あなたのような人のために、本願の救いが説かれているのです。女性は本願の救いの対象となる正機で、けっして卑下するには及びません」と進み、土佐に着く前に赦免になり、摂津箕面の勝尾寺へ。勝尾寺の第四世証如は親鸞が尊崇してやまない賀古(かこ)の教信から念仏往生をすすめられて、浄土教の信者になっていた。
この賀古は加古川。で、教信は野口に住んでいた。781年頃の生まれ。興福寺で修行したが沙弥なので正式な受戒はなかったと思われる。866年に亡くなっている。(って85歳!!めっちゃ長生き)
ほう。こんなところがある。
教信寺。 加古川バイパスの加古川出口を出て南側すぐか。行ってみようっと。
1211年。法然、京都に戻る。九条兼実に託されていた慈円が青蓮院の一部を提供したといわれている。
1212年。正月。亡くなる。
亡くなる直前、弟子たちが阿弥陀如来像を持ってきて、その指先から五色の
糸をのばし握るように勧めたが、
「そのようなことは、常の人が行うことであるが、私はそれに従わない」 ほんまなあ・・・良かれと思って弟子たちは余計なことを言い、するのだなあ。
米増(現上越市板倉区)に、
恵信尼公御廟所があるのか。
報恩寺は親鸞の信頼の厚い弟子性信が開いた。ここには「まな板開き」という鯉料理の儀式が残っている。これは「殺生しても往生に障りはない」ことを示したもの。報恩寺はもともと下総だけど、今は移転して台東区か。
信濃の善光寺は、物部守屋が難波の浦に沈めた(廃仏のため)一光三尊仏を、本田善光が拾って安置したところから始まったと。
歎異抄13条から
「海・河に 網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥を とりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐ るひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、 いかなるふるまひもすべし」 これは当時の「悪人」とされていた人たちだけど、「課税の対象で無かったから」とのこと。なるほど。
今に生きる親鸞 吉本隆明著ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし(歎異抄より)浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか 島田裕巳著法然の衝撃 阿満利麿著 1法然の衝撃 阿満利麿著 2