もういつも顰蹙もんの、「実践」を「戦い」に例えての「たとえばなし」です(^_^;)
でもっていつも言うことですが、この「戦い」は相手を殲滅するための戦いではなく、お互いが生き生きできる、そんな暮らしを作っていくための「戦い」です。
学校の先生にしろ、親御さんにしろ、お医者様や検査をして下さる心理士さんに、ものすごく大きな期待をされていることが多いです。お医者様はごく短時間で、(まる一日かかったり、いろんな検査をしたりして日数がかかったりすることもありますが、学校の先生とかと比べれば、「あっという間」と言えるほどの短い時間です)診断をし、場合によってはお薬を出すのが本来のお仕事。検査をして下さる心理士さんはフォーマルな検査によって、やはり短時間でその人の傾向・特性をはっきりさせるのがお仕事。
そしてその上で「大方針」というか、「おおまかな方向性」を示して下さるくらいですね。
例えばこんな地図を示して下さる。

ごくごく大まかなんだけど、もう「無い」のと比べると、全然戦いやすさが違ってくるわけです。
ここに川がある、ここにこのくらいの高さの山がある、敵は左上のこのあたりに展開しているようだ・・・
我々は右下から川を渡って攻め込まねばならない。
そこで、その地図を見た時、特別支援教育担当の実践者は「ではこの川を渡るには、工兵に頼んで橋を架けてもらう、船を用意する、ゴムボートを用意する、浮き輪を用意する、あるいは川幅が狭く浅いようだからロープをつないで生身で徒渉する」とか具体的な方法を考えるのが仕事なわけです。
それを、今までの教師を指導する立場の人が「愛があれば大丈夫。生身で飛び込め!!」って言ってなかったか。
あるいはすでに役立ついろんな武器(考え方やグッズ)があるのに、「武器を使うなんて人間らしくない。素手で戦え」って言ってなかったか。
追記
そして、「体の使い方」
例えば
「後ろから、あるいは自分の方へ引く方向から声をかけたら伝わらず、失敗する。
前から、あるいは押す方向から、止めたり、指さしたり、見てわかる物を示せば
伝わりやすい」
とかね。
兵なら「匍匐前進」の訓練は当然やるでしょう。立ったまま高い姿勢で移動
してりゃ頭を打ち抜かれたり、爆発物の破片にやられる確率は高くなります。
当たり前のことです。
それを教えずに現場に放り込む。
そのために戦闘員は死屍累々、そして「敵」もよく生きることかなわず死屍累々という結果になってなかったか。
お医者様や検査をする心理士さんが、「そのお子さんに対する」具体的な「支援方法」については詳しく知らなくて当たり前なのです。せいぜい「こういうお子さんには見てわかるものがいいらしいですよ」程度でもうおんの字なわけです。
現場でいろいろ戦術・武器などを選び、前進していくのは実践者の役目です。そして実際に行ってみれば、思ったより急流だったり、道があるはずが断崖があって途切れてて迂回する必要があったり、また逆に意外にすいすい前進できる道があったり、もうそれは現地(個人)によって差があるわけです。そしてそれに合わせて実践者はどんどん戦術も武器も変えていく。
と、この話を以前したら、こんなことを言われた方がおられました。
「川を渡らずに引き返してしまう人も多いんですよね」
・・・私の意図とか文脈とは違うのですが・・・実はその話の背景はものすごくよく理解できます。
でもほんま「特別支援教育担当教師(あるいは支援者)」なら戦うべきだし、もし通常学級担任とかが苦戦してるなら援護に回る必要もあるだろうし(しかし、ここでもある程度のサポートをし、その場その場は通常学級担任に考えてもらえるようにしていく必要があるわけですが)、指導主事とか、大学教授は様々なサポート(兵站も含め)をしてもらいたいのだし。
ほんま、生身で、素手で突っ込め、みたいなことはやめてほしいし、白兵戦を戦える「体の使い方」「考え方」もきちんと伝えて欲しいと思います。
おがっちが(「おがっちさん」がと書くと「さかなクンさんが」みたいな感じになるので「おがっちが」にさせていただきますが)こんなエントリを書いて下さいました。
実践者と専門家の関係「川を渡る」によせて