2011年1月20日発行 もちろん山中さんのノーベル賞受賞前。
遺伝に関する例え
ヒトの遺伝子の数はだいたい3万個ぐらい。約60兆個の細胞がそれぞれ3万ページの設計図を持っている。
遺伝子の中に「転写因子」と呼ばれる一群のタンパク質がある。これはDNAに結合して「この遺伝子を読め」と指示する「しおり」みたいなもの。
しかし「ここを読め」という「しおり」だけでなく「ここ読んじゃだめ」という「塗りつぶし」のはたらきの概念が出てきた。これを「エピジェネティクス」という。
この「しおり」と「塗りつぶし」で必要な細胞が生まれてき、それは2重3重にガードされている。
しかし、その「塗りつぶし」が一瞬で消えるのが「受精」の瞬間。塗りつぶしていたインクがパッと消えて、隠されていた文字が現れる。
これを受精卵でなくやったのがiPS細胞。
「諦める」ということが最も重要な作業だった
益川さんが6元クォークモデルを考え出した時。小林さんとさんざん4元クォークモデルについて議論し、考えつくしたがうまくいかなかった。これを諦めることがいちばん重要だった。
そやなあ。考え尽くして、やってみて、うまくいかなかったら
すっぱりあきらめることも重要やわなあ。
益川
6元クォークモデルにすればうまくいくだろうということは、ちょっとそういう意識になれば、ほとんど自明のことだった。数学者だったら、きっと初めからそういう発想をしたと思います。だけど、我々は物理屋なの。物理というのは自然現象を説明する学問だから、一般論としてどんなにきれいな理論になろうと、現実の自然がそうなっていなければ意味がないんです。たとえば、「クォークは百ある」と予想を立てて、それでうまい理論ができたとしても、現実に自然の中にあることが証明できなければ、意味がないわけ。
だから当時は、「クオークは三個までは見つかっている。四つ目が新たに見つかる可能性は高いだろう」と考えるのが精一杯で、四つ以上あると考えるのは、「冒険」というよりも「無謀なこと」だった。物理量の頭では、いきなり六へは飛べないのです。だから、「もしクオークが六種類以上存在したら……」という僕達の仮説は、他の物理の先生方には暴論のように思われて、なかなか受け入れてもらえなかった。
山中
「ホンマかいな」と、ものごとを疑ってかかる姿勢は大事だと思いますが、それも度を超すと、「そんなことあるわけない」という思い込みにつながりかねませんよね。
益川
その結果、自分や他人の自由な発想や発言を押さえこんでしまうこともある。それは本当に恐ろしいことだと思いますね。
これね、例えば自閉症や知的障害の人に「選択活動をしてもらう」
とか「自分で判断して行動してもらう」こととかなんかにもつながる
話とちゃうかなあ。「無謀」とか「そんなことあるわけない」と思わ
れたりとか。
益川
ところが、ノーベル賞の場合は違いました。「受けていただけますか?」ではなく、「決まりました」という感じ。受けるのが当然で、断る人なんかいるわけないという感じで知らせがきたので、カチンときたわけです。僕はカチンとくると、江戸っ子でもないのに口調がべらんめえになる。「なに言ってやがんでぇ。のしつけて返してやらぁ」って(笑)。実際はそんなこと言わないけど、それで「たいして嬉しくない」みたいな言い方になっちゃった。でも、そのあとのノーベル財団の対応は、非常に品位あるものでした。
山中
奥様から、「あまり突っ張らないように」と叱られたそうですね(笑)。
益川
あれは教育的指導(笑)。もう一つの理由は−、理由というほどのものでもないんだけれどー、僕は、難しい問題と格闘している時はワクワクしてテンションが上がるんだけど、論文を書き始めると、高揚した気持ちがだんだん冷めていく性質なんです。
問題が整理されてくると、「ああ、オレはなんて小さなことに夢中になっていたんだ」と、自己嫌悪すら感じてしまう。
あの論文は、僕が小林君と議論を重ねながら組み立てた理論を、小林君が英語で書いてくれたものです。なにしろ僕は英語が苦手ですからね(笑)。意外かもしれませんが、論文はほんの数ページでした。それが完成した直後に、「もうCP対称性の破れについての問題はこれで終わりにしよう」と決めました。興味の対象が別のものに移っていたからです。それ以来、まったく関わっていません。
「たいして嬉しくない」と言ったのは、あの論文が遠い過去の仕事の一つにすぎなくなっていたから。それで自分の気持ちを率直に述べたら、ああいう表現になってしまった、というわけです。
山中
なるほど、そういうわけだったんですね。
この「ああ、オレはなんて小さなことに夢中になっていたんだ」
って感じ、わかるような気がします。(って、私のわかりかたは
全然レベルが違うでしょうが・・・(^_^;))
思考の接伴作用
山中
独創的な研究をするためにはディスカッションも大事だと思うのですが、「小林・益川理論」のように二人で研究するほうが、一人でやるよりもやはりメリットがあるんですか?
益川
それはもう、ぜんぜん違います。どの分野にもいえますが、研究者が考えていることは一人ひとり違い、互いに影響を与えあっています。たとえば、僕が院生に何か説明している時に、その院生が首をかしげたら、「あれ? 俺はおかしなことを言ってるのかな」と思う。
紅茶の中に角砂糖を入れて、そのまま放っておいても溶けていかないけれど、軽く一回だけスプーンで回すと、すーっと溶けていく。それと同じように、ディスカッションを通じて自分以外の人が関わってくると、それまで自分の思考回路の閉じた部分でクルクル回っていた考えが、すーっと外に流れて行ってくれる。僕はそれを「思考の喪神作用」と呼んでいます。人と話すことは、とても重要です。
山中
私も、一人では行き詰ってしまうことがよくあります。先生が言われた「思考の攪拌作用」は、理論物理学の場合だと、人と人とのディスカッションがメインになると思いますが、実験生物学の場合は、実験をやってみて自然に問いかけると、自然から何らかの答えが返ってくる、という場合もあります。
益川
なるほどね、自然が会話してくれるわけだ。
「攪拌作用」というのもあるだろうし、「触媒」とか
「やすりをかける」とかいろんな場合がありそう。
とにかくひとりだと独善になるよね。
凡人でもいい仕事をするには
山中
京大のiPS細胞研究所は、人数的にはまだ目は行き届くのですが、データの量という点では、次世代シークエンサーによって想像を絶する膨大なデータが出てくるようになったため、すでにまったく目が行き届かなくなっています。「何もかも一人ではできないんだ」ということを、早く悟ることが重要だ、という気がしています。
iPS細胞研究所は、スタートした時は「iPS細胞研究センター」という名前で、研究室のメンバーは少しいましたが、組織としては私万人しかいませんでした。そこからわずか二年半ほどで、研究者やその他のスタッフ約百五十人の大所帯になりました。学生さんを入れると二百人近い規模です。
益川
すごい勢いで拡大しているんだなあ。山中先生にとってはご苦労も多いでしょうが、分業や組織化もうまく進めれば最高の武器になります。坂田先生は、「最良の組織と最良の哲学があれば、凡人でもいい仕事ができる」という考えを持っておられました。「研究は一人の天才によって行われるものではなく、組織的に行われるものだ」とも、おっしゃっていました。
山中
いい言葉ですね。
ええ言葉やな。
山中さんが受けたプレゼンテーションのゼミの話
山中
特にオーラル(口頭)プレゼンテーションの大切さを教えられました。みんなの前でプレゼンテーションをし、それを互いに批評し合うという内容が多かったですね。
そのうち何回かは、プレゼンしているところをビデオに撮られました。プレゼンが終わると退席させられ、本人のいないところで、みんながあれこれと批評します。本人がその場にいると言いにくいことまで、ズケズケ言う。
益川
欠席裁判だ(笑)。
山中
その欠席裁判もビデオに撮ってあって、あとで本人に見せてくれるんです。自分ではまずまずの出来だと思った時でも、身ぶり手ぶりまで批評されていました。目から鱗が落ちる思いでしたね。そういう授業が一回二時間、週二回ほど、二十週続きました。
「アメリカの研究者は、若い頃からこういう体験を通して、自分をどうやってアピールすればいいか体で覚えるんだな。中身で勝負するだけじゃ、世界との競争には勝てない」と、実感させられました。
ほかに私が言われたのは、「スライドでは聴衆から見えないような文字を使うな」とか、「文字ばかりのスライドを見せられても誰も読まないし、理解もできない」とか、「説明しないことを書くな、説明したいことだけを書け」とか、「発表の目的をはっきりさせろ」とか、当たり前のことばかりでした。
けれど、その当たり前のことが、できんのです。それを何度も何度も叩き込まれました。
こういうの大切やと思う。
あと「発表の時にポインターを動かすな」ってのもあったな。
確かに、グルグル回しちゃうわ。
それから山中さんは大阪医療センターでの研修医時代
「じゃまなか」と呼ばれてはったという話は有名ですが、先日私が
行った時、玄関の入り口に大きな壁新聞(ポスターと言うべきか)
が貼ってあり「当院で研鑽をつまれ」みたいなことが書いてあり、
「じゃまなか」と呼ばれていた話は書いていませんでした(笑)
あと山中さんも益川さんもうつ(山中さんは「そう言ったら本当
のうつの方に失礼ですが」と書いておられるけど、まあうつでいい
と思います)になられた経験がおありだそう。
山中
科学者にとって、「神」の英語版は「ゴッド」じゃなくて、「ネイチャー」なんですね。
今、私達はことあるごとに「独創的な研究をしろ」ということを言われます。研究費を申請する時も、「この研究はどこが独創的か」と書く欄があります。でも、はっきり言ってですね、私はそんな独創的なことなんか、ぜんぜん思いつかないんです。iPS細胞にしても、これだけ世界中でいろんな研究者がいろんな研究をやっている中で、「他の人がやってないことをやれ」と言われても、ちょっと自分にはできない。必ず誰かが同じこと
をやっています。
その点、実際に実験をやってみて思うのは、自然の方がはるかに独創的だということです。人間がまったく思いもかけなかった「ヘンな顔」を、自然は見せてくれる。
そのヘンなことをきちんと受け止め、興味を持ち、追い求めていけば、独創的な自然に助けられて、ひとりでに独創的な次のステップヘ行けるような気がしています。
これもな、現場で実践をやっていて、珍奇な「療法」や「理論」に
頼るより、現実の人間のひとりひとりの違いについていってれば、自
然にいい結果(そして独創と言ってもいい結果)につながる、みたい
なのと同じような気がする。
最後の「あとがきにかえて」は永田紅さんて方が書いてるんだけど、この方の肩書きが「京都大学 物質ー細胞統合システム拠点(iCeMS)博士研究員、歌人」ってなってる。おもろい。
で「一見失敗と思われるような事柄が大発見につながること、それを見つける能力」ってセレンディピティという名前がついてるんですね。田中耕一さんの発見なんかもそう。