へえ。NHK出版から出てるんだ。
もともとNHKの番組
「無縁社会の衝撃」への返歌として書かれた本。
「無縁社会」と言うけれど、それは人々が求めてできたものではないか、という問題意識からの出発。
確かに、村という「有縁社会」から上京など都会に出ることによる「無縁」を人々が求めたのではないか、ということ。
確かに私の友人で地方出身の人は「お祭りの時に近所の顔役にお供え物の置き方飾り方をあれこれ言われるのが嫌だった。都会の生活でそういうのが無くなってなんと気楽なことか」と言ってました。
しかし・・・上京にしろ、他の都市部に出てくることにしろ、「無縁化を求めた」と言うよりも「仕事を求めた」という方が大きいかなあ・・・もちろんそれは「無縁化」につながったのだけど。
もちろん「無縁」を求めた人もたくさんいただろうとは思う。私が山谷で働いていた頃、一緒に土方をしてた人で「この人はねえ、地方で公務員してたんだよ」と紹介された人なんか、何かがあって「無縁」を求めて来はったような気はしたな。
また著者が書いている「村社会は多数決を好まない」とかいうのの息苦しさもすごくわかるような気がする。
この本、読んでみたい。
しかし、出て来た都会でまた人々は縁を結ぶ。
「企業(会社)」「学校」そして主として「新宗教」(既存宗教は都市部ではなかなか広がらなかったろう)
そういや1980年頃、私が上京して、まあひとり孤独に風呂トイレ無し四畳半のアパートに居た時、夜に時々近所からすごく楽しそうに語り合う人たちの声が聞こえて来た。私も「寄りたいなあ」と思った。あれは今思えば創価学会の座談会だったんじゃないかと思う。結構、そういうので「有縁化」する、ってのはあったのじゃないかな。
でも、実際にそれらで有縁化しきれない部分もあるだろうし、できない部分もあるだろう。それこそ一人暮らし高齢者の見回り事業みたいな感じで、行政あるいはボランティア団体などのゆるいつながりの縁を作っていかないといけないんじゃないかなあ。
ところで著者は東洋の宗教は「無縁死」を求めたと書く。例えばインドでは人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」と4つに分け、最後の遊行では全てを捨ててさまよい、野垂れ死にするのが理想であったと。またブッダはたくさんの弟子にみとられて死に、「無縁死」をしたわけじゃないけど、それを目指していたのではないかと。
そやなあ・・・まあ死ぬときは死ぬ。みとられようが、みとられまいが、死ぬ時は死ぬ。まあ、でも、ちっとばかしの関わりは欲しいかな・・・
posted by kingstone at 23:45|
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