西行の名前は有名だし、北面の武士での出世の道から遁世し、日本各地を旅して回ったという点に憧れもありました。しかし、
「どうやって食べてたんだろう(儲けてたんだろう)」
という点が不思議で・・・
この本を読んでもその謎が解けたわけではありませんが、でも興味深いことはいろいろありました。
年表再掲
西行 清盛
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1118 誕生
1129(12歳) 宮仕え
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1130(13歳) 宮仕え
1137(20歳) 肥後守任
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1140(23歳) 出家遁世
1147(30歳) 祇園乱闘事件
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1150(33歳) 高野参籠
1156(39歳) 保元の乱
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1160(43歳) 西方修行
1167(50歳) 太政大臣
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1170(53歳) 勧進活動
1177(60歳) 鹿ヶ谷の謀議
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1180(63歳) 伊勢移住
1181(64歳) 死去
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1190(73歳) 死去
西行の俗名は佐藤(藤原)義清(のりきよ)(藤木直人)父康清も検非違使だから警察官みたいなもんか。
平清盛(松山ケンイチ)は1129年に12歳で従五位下。
義清は1130年に父が申請したが認められず。1135年に18歳でやっと六位に。(兵衛尉(じょう))
この年には清盛は岩清水八幡宮の臨時祭の舞人の役を勤め従五位上。(大河ドラマでも舞っていたな)
1130年代は飢饉が全国的におきていた。
1134年「天下飢饉」
翌年 もっと悲惨となり疫疾・飢饉により餓死者が「道路に充満す」それとともに地方で海賊・山賊が横行、武士の私合戦も。(で平忠盛(中井貴一)が活躍するという話になるわけだ)
西行遁世は1140年。23歳。周囲は引き止めたという。藤原頼長は
「家富み年若く、心愁ひ無きも、遂に以て遁世す」と「台記」に記している。この場合の「愁ひ無き」は「官職につけないとか名誉を傷つけられるとかいう心配」のこと。
嵐山光三郎さんは週刊朝日のコラムで「身の安全をはかるため」という説を紹介していたけど、確かにその危険はその後の武士の戦いを見ているとありそう。
後、待賢門院(檀れい)との恋愛関係説とかあるそう。
1140年(保元6年)の春に詠まれたらしい歌。
世にあらじと思ひける頃、東山にて人々、霞に寄せて懐ひを述べけるに
空になる心は春の霞にて世にあらじとも思ひ立つかな(723)
同じ心をよみける
世を厭ふ名をだにもさは留め置て数ならぬ身の思出にせん(724) 鳥羽院(三上博史)に出家の暇を申し出た時。
鳥羽院に、出家のいとま申すとてよめる
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をもたすけめ(西637)
同じ頃か
いにしへ頃、東山に阿弥陀房と申しける上人の庵室にまかりて見けるに、哀れに覚えてよみける
柴の庵と聞くは卑しき名なれ共世に好もしき住居なりけり(725) 「柴の庵」とは屋根が柴(って、「おじいさんは山に柴刈りに」と言うけれど、どんなもんなんだろう。山だからヨシではないし、細い枝のことか??)なのか、壁もなのか。やっぱりWikipediaを見ると「山野に密生する、多くはツツジ科の雑木、灌木。」とあるな。
この頃の人としては鴨長明の「方丈記」とかあるけど、方丈の家でも、壁や屋根はどんなもんなんだろう。たぶんこの時代だと、一部は床のある「家」に住んでいただろうけど、一般庶民って竪穴にちょっと壁や屋根をつけたくらいじゃなかったろうか。
なお鴨長明の「発心集」によると出家する時、西行は弟に所領と娘の行く末を託したと。ならその段階で西行の持分というか毎年入ってくる米とかいうものも無くなるんだろうか?
で、まず伊勢へ。
世を遁がれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて
鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになり行く我が身なるらん(728) その後すぐ京に戻り鞍馬へ。
世を遁れて鞍馬の奥に侍りけるに、筧の氷て水まで来ざりけるに、春になるまではかく侍るなりと申しけるを聞きてよめる
わりなしや氷る筧の水ゆゑに思ひ捨ててし春の待たるる(571) 寒さにまいったみたい。
次に東山へ。
このあたりでもうわからなくなる。この伊勢・鞍馬・東山、当時は旅館なども無く、寺や神社(って当時は寺でもあったろうと思う。伊勢神宮は大日如来の化身だということだったと)がいきなりでも泊めてくれたのか。それともあらかじめ連絡がいっていたのか。いってたんだろうな。
で、それはコネでタダでずっと泊めさせてくれたのか、それとも何かで支払いしたのか。一泊とかでなく、「では一俵」とか・・・
1142年25歳の時に藤原頼長(山本耕史)に「一品経」の書写を頼みに行っている。(「法華経」「無量義経」「観普賢経」を合わせて書くもの)鳥羽院・崇徳院に上げるため。著者は待賢門院説を取らないそうだが、そりゃあり得るかも・・・
つまり「えらい人」に上げるお経を書いてくれ、と。西行はそういう存在で、かつ有名で、しかしそれで「お米」とか手に入れていたのだろうか・・・
その頃堀河局(待賢門院藤原璋子の女房)(りょう)とのやりとり。まず堀河、そして西行。
堀河局、仁和寺に住み侍りけるに、まゐるべき由申したりけれども、まぎるることありて程へにけり。月の頃前を過ぎけるを聞きて言ひ送られける
西へ行くしるべと頼む月影の空頼めこそかひなかりけれ(854)
返し
さし入らで雲路を避きし月影は待たぬ心ぞ空に見ゆらん つまり、堀河局などにも「西へ行く(西方浄土へ行く)」ために頼りにされているということ。そういう存在だったわけだ。
この頃地方での武士の戦いは多く、1141年、平忠盛が国司となっていた美作の国では、法然の父漆間時国は敵の夜討ちに会い、法然は出家。(比叡山に登ったのは1145年)もし父が死んでいなかったら平忠盛の家人になっていた可能性もある。
「台記」の1142年のところに
「南京衆徒の乱逆最も甚し。これにより五月の比より、悪僧を勧学院に召し集め、各の師に付けて召し、召し取る所の十五人、・・・奥州に遣わさんがため」とある。つまり「悪僧(武闘派?)をつかまえて東北に流した」とある。比叡山だけでは無かったわけだ。またそれについて西行は
奈良の僧、とがの事よりて、あまた陸奥国に遣わされしに、中尊と申す所にまかり逢ひて、都の物語すれば、涙流す、いと哀れなり。かかることはかたきことなり、命あらば物語りにもせんと申して、遠国述懐と申すことを詠み侍りしに
涙をば衣川にぞ流しつる古き都を思ひ出でつつ(西452)
これを見ても「悪僧」と呼ばれてはいても西行は悪い感情は持っていなかったことがわかる。
で1144年から1145年あたりに西行は奥州旅行(奥州修行)に行ったらしい。しかしこの頃だと旅は即修行であったのだろう。たいへんさにおいても。この本にも「奥州行きは容易なことではなく、死の危険があったし、資金も必要とした」と書いてある。
しかし「資金」たって・・・お金であれこれ用を足すことはできたのだろうか??
また調達するたって、どこからどう??
十月十二日、平泉にまかり着きたりけるに、雪降り、嵐激しく、殊のほかに荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかり向かひて見けり。河の岸に着きて、衣川の城しまはしたる事柄、様変はりて、物を見る心地しけり。汀凍りて、とりわき寂びければ
とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川見に来たる今日しも(1131) これは寒そうだ。
で京に戻ると東国修行の聖として尊敬の念をもって迎えられたであろうとのこと。崇徳院との交流も密になる。
1150年頃、西行は厳島方面に西国修行(旅)に出ている。
またこの頃、平清盛も1151年に安芸の守になっている。もともと高野山の根本大塔の造営に関わっており、その時の夢告により厳島に行き、その時に従一位太政大臣になるとの巫女の託宣を得たという。
西行は西国修行のあと高野山に籠もる。
高野に籠もりたりける頃、草の庵に花の散り積みければ
散る花の庵の上を吹くならば風入るまじく廻り囲はん(138) この「籠もる」という表現について。高野山には検校以下6人の「阿闍梨」がおり、21人の「山籠」36人の「入寺」15人の「久住者」6人の「三昧」がいる。ひょっとしてその「山籠」だった可能性も・・・ってことはすごく「えらい」立場だったということか??
また高野山の近くには弟仲清が知行する田仲荘がある。本来は西行が知行していたところ。また西行の妻や娘は高野の麓の天野に隠棲したと伝えられる。
そして高野山にいる間に大峰山でも修行している。「古今著聞集」にも記されている。宗南坊行宗という先達から厳しく折檻をともなう指導を受け、次のような泣き言を言ったという。
我は本より名聞をこのまず、利養を思わず。只結縁の為にとこそ思つる事を、かかる驕慢の職にて侍けるをしらで、身を苦しめ心をくだく事こそ悔しけれ。 しかしこのあと諭されて難行苦行に絶え、一度ならず二度も踏破し「大峯二度の行者」と称された。なおこの宗南坊行宗は1187年に後白河法皇(松田翔太)が病にかかった時に「熊野験者」として召されて祈祷し、回復したので律師に任じられている。
1156年(保元元年)鳥羽院の病が重くなり武士の不穏な動きが出てくる。その警護の武士の中に最初平清盛は入っていなかったが美福門院(松雪泰子)が院の遺言である(と偽って?)名前を入れた。
1156年7月2日。鳥羽院崩御の時。
こよひこそ思ひ知らるれ浅からぬ君に契りのある身なりけり いろいろ動きがあり、7月11日明け方平清盛と源義朝(玉木宏)は崇徳院(井浦新)のいる白河殿に攻撃をかけ、門を守る源為朝軍とぶつかる。戦いは一進一退ながら火を放たれた白河殿は焼失。院も信西入道(阿部サダヲ)も逃げる。
崇徳院は仁和寺にいる所を保護(つかまる)される。西行はすぐに会いに行っている。官職などあれば普通なら会えないところだが西行は遁世しているので会えた。
崇徳院は7月23日に讃岐に流される。
なお、この保元の乱で「死刑」が復活する。
西行はこの後も讃岐の院と手紙のやりとりがある。
この後、西行は高野山から京へ出向いては歌人と交流している。有名な
願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ(77) もその頃の歌。
1167年2月11日 平清盛は太政大臣になる。50歳。(つまり西行も)
5月10日に平重盛が山賊・海賊追討の宣旨を受け、これは武家の存在が国制上に位置づけられたこと。そのため清盛は7日後に辞表を出している。つまり太政大臣になっていたのは3か月だけ。
1167年、醍醐寺で修行し各地で修行を積んでいた重源は大陸に渡る。栄西も大陸に渡るために鎮西に赴き、翌1168年大陸に渡る。彼らは五台山を目指し渡宋したのだが、この頃、五台山は金に占領されていた。そのため重源は阿育王山に行く。
西行は書写山を経て四国を目指した。その途中、明石で西住(相棒)と同行することになる。
明石に人を待ちて日数経にけるに
何となく都の方と聞く空は睦まじくてぞながめられける(1135) また途中和歌の名所である野中の清水(神戸市西区岩岡町)を訪ねている。
播磨書写へまゐるとて、野中の清水を見けること、一昔になりけり、年経て後修行すとて通りけるに、同じさまにて変はらざりければ
昔見し野中の清水変はらねば我が影をもや思ひ出づらん(1096) 書写山円教寺から瀬戸内海へ出て、備前牛窓へ。サザエを取る海人に関心を示し、児島では「あみ」えびをとる海人に関心を示している。そこから日比・渋川に行き、そこでは「つみ」(つぶ貝)を取る海人について歌っている。また塩飽島に行く商人のことを歌う。しかし全て「罪人」とみて詠んでいる感じ。う〜〜む。他に鮑・鯛・海苔・螺(これもつぶ貝とかサザエ)などを詠んでいる。
讃岐では崇徳院の墓を訪ねている。
白峯と申す所に、御墓の侍りけるにまゐりて
よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん(1355) これは「君よ、こうなったからにはどうなりましょうか、安らかに眠ってほしい、祟るようなことはやめてほしい」と詠ったもの。崇徳院が書写した五部大乗経を朝廷に差し出したところ、その写本が送り返されてきたので、激怒して自分の舌を噛み切ったその血で写本すべてに「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と書き込んだという院を鎮魂しようとしたもの。
そして弘法大師が生まれ、修行した地である善通寺の近くに庵を結んだ。
1168年平清盛は病に倒れる。「玉葉」によれば「寸白(すばく。寄生虫の病)」2月11日の夜、遁世することになった。この時、妻時子(深田恭子)も出家している。
後白河上皇も熊野詣でから予定を繰り上げ六波羅に行き、清盛と相談し、東宮への譲位を決める。これは清盛亡きあと世が乱れると考えて。しかし清盛は持ち直す。
出家後、清盛は「愚管抄」に「平相国ハ世ノ事シオホセタリト思ヒテ出家シテ、摂津国ノ福原ト云所ニ常ニハアリケル」と書いてあるように引退する気持ちで福原にいたみたい。
しかし、1162年に清盛の使者が小平野・井門・兵庫・福原の四つの平家領の荘園を拡大したとあり、1165年頃には八部群山田荘を獲得しているのでそれ以前から関係はあった。
1169年3月20日に後白河上皇が福原御所に来ているので、その頃には完成している。この時は後白河上皇が十二度目の熊野詣での帰り。また「出家の暇」を申すために参詣したと。でその帰りに福原に来た。
この時、3月21日に千部法華経の供養を千人の持経僧によって行っている。持経僧(持経者)とはWikipediaによると常に経典を持ち読誦を行う者で「聖」と呼ばれ多くは私度僧であったとのこと。
なおこの時に福原で「梁塵秘抄」が完成している。
上皇は帰京後6月17日に遁世。法皇となる。
1170年。前年から続く比叡山の大衆からの強訴事件にカタをつけるため清盛が入京する。「大衆和平」事件。一応おさまりをつけるが後までくすぶる。
大輪田泊にやって来た宋人と法皇の面会を実現する。
西行が四国にいた1168年、高野山では「裳切(もきり)騒動」が起きていた。鳥羽院に信任を得ていた覚鑁が大伝法院を造営して手厚い保護を受けていたが、1168年正月の修正会において美麗な服を着て列席していたので、墨染めの衣を着ていた本寺の僧が怒って大伝法院の僧の服を切ったというもの。(そんなもんほっときゃいいと思うが・・・)
で大伝法院の200余りの坊を焼き払った。
1171年には西行は四国から戻ってきている。そして後白河法皇に接近し、勧進活動を始める。しかし何の勧進かはこの本に書いていないのだが、高野山の坊を再建する勧進かな??
重源が大陸から戻って来て高野山の勧進活動をしている話も一緒に出てくるし。
なお1171年(承安元年)に平時忠(時子の弟)(森田剛)が「平氏にあらずんば、人に非ず」と豪語したとのこと。(清盛の言葉じゃなかったわけだ)
1172年(承安2年)3月15日から17日の3日間、清盛は福原近くの輪田浜で持経者千人を集め法華経の転読をした。この時西行も加わっている。
六波羅太政入道、持経者千人集めて、津の国輪田と申所にて供養侍ける。やがてそのついでに万燈会しけり。夜更くるままに燈の消えけるを、各々点し継ぎけるを見て
消えぬべき法の光の燈火をかかぐる輪田の岬なりけり(862) 1173年。親鸞生まれる。
1174年頃「山家集」成立。
1177年。山門強訴。一時は後白河法皇が山門の要求をのんだが、その後「太カ焼亡」と呼ばれる大火が京でおき、それを山門のせいとみた後白河が清盛に攻撃を命じる。そういうことがありながら鹿ヶ谷の謀議で後白河を含め平時打倒が相談されたことを知り、後白河以外の関係者を処罰した。
1179年(治承3年)高野山南部荘への賦課の免除のために西行は動く。(為政者に働きかけて税金をまけてもらう動き、ってことだな)
「新古今和歌集」にとられ、また返歌が「山家集」に入っている遊女とのやりとり。
遊女に宿をかりけるに、かさざりければつかはしける
(「山家集」では天王寺へまゐりけるに、雨の降りければ、江口と申す所に宿を借りけるに、貸さざりければ)
世の中をいとふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君哉(752)
返歌
家を出る人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ(753) 結局泊めてもらえなかったわけだけど、歌のやりとりはあったわけだ。しかし「出家だから泊めない。仮の宿りに心をかけないから。」というのはどういう意味だろう・・・ようするに商売にならないから、みたいな??
1180年(治承4年)以仁王の乱。これも平氏打倒を企てた。まず山門の大衆を頼り、拒まれ、南都の大衆を頼って南都に赴く途中で官軍(平氏たち)に宇治で討ち取られる。
この頃、西行は伊勢の二見浦にいた。宇治川の合戦で平氏軍が馬筏で渡河した(新兵器みたいな感じか)ことを聞き
武者の限り群れて死出の山越ゆらん、山立と申す恐れはあらじかしと、この世ならば頼もしくもや。宇治のいくさかとよ、馬筏とかやにて渡りたりけりと聞こえしこと、思ひ出でられて
沈むなる死出の山川みなぎりて馬筏もやかなはざるらん(聞226) 「山立ち」は山賊のこと。
この以仁王の乱が落ち着いて清盛は福原から5月26日に上洛し、5月30日に安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇らを福原に移すことを伝えた。福原遷都。6月2日に実行。
この8月17日、源頼朝が伊豆で兵を挙げる。頼朝挙兵の報が福原に届いたのは8月下旬。9月5日に頼朝追討の宣旨が出たが、9月29日に発向したところ源氏の多くが挙兵していた。そして清盛が厳島に参詣していた10月富士川の合戦で大敗。
11月2日に福原に戻って来た清盛は、宗盛から都を戻すべしという進言を聞き激怒するが、周囲の京都生まれ京都育ちのみんなも戻りたかったので抗せなかった。
11月26日に天皇以下入京。ってことは福原に都があったのはちょうど6か月。半年か。
清盛は源氏の動きに反攻し三井寺を攻め、また南都を焼き払う。焼かれたのは12月28日。
1181年(治承5年)閏2月4日。清盛「頭風」で高熱を発し九条河原口の平盛国邸で亡くなる。この高熱は興福寺を焼いたせいであると噂された。遺言で遺骨は播磨の山田法華堂に納めること、ということだけど実行されたのかな?
閏2月6日。宗盛が後白河法皇に迫り頼朝追討をのませている。
3月10日には平氏が墨俣で大勝利している。
法皇は6月15日に興福寺造営のための議定を行い、6月26日に藤原行隆を造東大寺長官・造修理大仏長官に任命し、勧進によって造営することを命じている。人々の「一粒半銭」「寸鉄尺木」の鬼神によってこそなると。そして法皇の身に代わって、勧進上人の重源が大仏の再興を実行する、と宣言している。当時重源61歳。
しかし1180年(治承4年)6月頃から気配のあった飢饉が1181年4月になると道路に餓死する者が満ち溢れるようになる。この年から2年あまりも続く飢饉を鴨長明が「方丈記」に記している。仁和寺の隆暁法印が、死者の額に「阿」の字を書き記していったところ、2か月で42300余にものぼったという。
1181年(治承5年が改元され養和元年)8月1日に右大臣兼実が耳にした2つの噂。
1.宗盛の勢いが日をおって減少。
2.頼朝が法皇に密かに「関東は源氏、西国は平氏、ってことでどうですか」みたいな提案をしてきた。
が1183年(寿永2年)5月11日。倶利伽羅峠での大敗をきっかけに平氏は後退に後退に転ずる。
7月木曾義仲が京をうかがっている最中、法皇が平氏のもとを離れ比叡山・横川に登ってしまい、掌中の玉を失った平氏は西海に下ることになる。
つまり清盛が亡くなってから2年半ほどしてからのことなわけやな。
1184年(寿永3年)正月、関東から源範頼・義経らの軍勢により木曾義仲は討死。
木曽と申す武者死に侍りにけりな
木曽人は海の怒りをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな(聞227) 1185年(元暦2年)3月24日。壇ノ浦の合戦。平氏滅びる。
清盛の死後4年。
この年の7月9日。京都を直下型の大地震が襲う。清盛が龍になって振動させたという噂が流れた。
8月28日。大仏開眼。
頼朝は義経暗殺のために土佐昌俊を派遣。その挑発にのった義経は挙兵しようとしたが兵が集まらず、鎮西に退こうと11月6日に摂津の大物浜(尼崎)から船に乗って出ようとしたが、転覆、ここから没落していく。
1185年11月28日に朝廷は守護地頭の設置を認め、ここに武家政権が成立したと見られる。(だから鎌倉幕府の成立は1192いいくにでなくなってしまった)
1186年(文治2年)重源が伊勢で祈り、また大般若経の書写というイベントを伊勢でやる。この時に西行とも接触があったと思われる。
ところで大仏は1184年に藤原行隆は、頼朝から千両、奥州の秀衡から五千両(秀衡のほうが5倍!!)の奉加の約束ができた、と語っている。しかし1185年の大仏開眼供養の時は金が足らず、大仏のメッキは首の半分だけ。そこで西行が奥州に勧進に行くことになった。しかし1186年の時点では義経が畿内周辺を逃げまわっており、奥州にも逃げることが予想されたいへん危険な状態だった。しかし行けた・・・
1186年(文治2年)8月15日には鎌倉に到着している。
8月15日に頼朝が鶴岡八幡宮に参詣したところ、老僧が一人鳥居の辺りを徘徊していたので、怪しんで梶原景季に命じて名字を問わせると「佐藤兵衛尉憲清法師なり。今は西行と号す」と語った。そこで引見し、「和歌の事」を聞こうと御所に招き入れた。また「弓馬の事」を尋ねた。翌日午刻、引き留めるのを振りきって出発する西行に頼朝が銀の猫を贈り物として渡したが、門外にいた子どもに与えてしまった。
ってことだけど、そらないやろ・・・あらかじめ「行きますよ」という連絡は入っていたのじゃないか??
著者も頼朝から安全の保証を得ることが主な目的であったのでは、とのこと。
10月1日に陸奥の国の貢金450両が秀衡から鎌倉に送られて来ている。しかしこれは西行の勧進の成果かどうかはわからない。
そして1190年(文治6年)2月16日に西行は亡くなった。河内の弘川寺??で、この頃、桜が咲いていたのだろうか??
しかし・・・結局、どうやって「食って」たんだろう???