先日「葬式は、要らない」を読んだので続きで。
いろいろ宗派のことが書いてあって面白い。というか宗派という形ができたのはかなり遅く、奈良時代とかは南都六宗とは言われるものの、これは「学派」に近いとか。だいたい「南都」と言われるようになったのは「北都」である平安京ができてからだし。
当時は国家(飛鳥以前だと豪族とか有力者)丸抱えだから、教団経営をする必要もないし。つまり同じ国立大学の離れた敷地にある学部みたいなもんか。
696年(持統天皇10)に年分度者(官僧)の制度ができた。その他は勝手に出家した「私度僧」
803年(延暦22)で年分度者は法相宗が5名、三論宗が5名。
天台宗に認められたのは最澄が亡くなった直後で、当初2名。
真言宗では、824年(天長元)に1名、空海が亡くなる直前に3名(!!)
奈良時代の東大寺などは六宗兼学。平安時代の東大寺は天台・真言を加えた八宗兼学となる。
インド仏教→上座部・大衆部に別れる
上座部→さらにいくつも(部派仏教)
在家信徒のなかから大乗仏教
※(比較)キリスト教→カトリック・東方正教会・プロテスタント
華厳宗 「華厳経」壮大な宇宙論(東大寺大仏)
「南都北嶺」延暦寺と南都六宗の寺 多くの荘園・僧兵を抱え独立性
1180年(治承4)平清盛の命で平重衡が興福寺や東大寺を焼き討ち(南都焼討)
しかし経済力があったので鎌倉時代に復興
織田信長の比叡山焼き討ちや豊臣秀吉の刀狩は寺社勢力を押さえるため
天台宗 天台本覚論「草木国土悉皆成仏」(これは能に出て来る言葉。草木成仏とかとも言う)
空海について、実は最澄以上のスーパーエリート説がある。私費留学する財力や、天皇に認められる速さなど。
延暦寺は焼き討ちされたが、高野山は木食上人が秀吉と交渉して焼き討ちをまぬがれた。そのため建築物や宝物がたくさん残っている。
法然は思想的にはラジカルでも、生活態度とかは保守。また浄土宗でも「専修念仏」だけでなく、密教を取り入れたり、修行のある宗派もある。(結局そういうほうが人気が出たりするんだよね)
親鸞についてはよくわからないことが多い。
禅はもともとインドから中国に2世紀頃には伝わっている。6世紀始めにインドから中国に渡った達磨大師の影響が大きい。南宋時代(1127〜1279)には五山ができていた。(で、ここから真似して京都五山や鎌倉五山ができた)日本には唐にわたって玄奘三蔵に師事した白鳳時代の道昭が伝えている。
栄西が伝えた禅が定着するのは、武家の時代が来ていたから。そして「興禅護国論」を書く。その中で「教外別伝・不立文字」を説く。これは「禅の真髄は経典の言葉の中にあるわけではなく、体験の中にあり、座禅を通して釈迦の悟りに達する」ということ。
「不立文字」は曹洞宗かと思っていた。で、禅問答とは公案を使う臨済宗のものと思っていたけど、道元の言葉は相手の意表をついていて、「いったい道元は何を言いたいのか」と相手が考えこむ、まさに禅問答をやってたそう。
なお島田氏は永平寺の修行での暴力に言及し、「戦時中の日本軍においても暴力が横行していたが、それは禅寺から取り入れらたものだとさえ言われている」という説を紹介している。
で道元は雲水の生活規範を定め「永平清規」を書き(つまりマニュアルやな)、4世瑩山紹瑾は「瑩山清規」で補足した。こちらは寺の運営についてのことが主。その中に葬儀法があったので、それが一般の葬式にも応用されていく。それが日本の「葬式仏教」への始まり。
しかし・・・私はもともと官僧は穢れをきらい、弔いをしてくれなかったのが、それこそ私度僧とか遁世僧は死者を弔った、それが葬式仏教の始まりかと思っていた。ってか両者があいまったのかな。
日蓮の場合は、書状が多く残っているので、そこから性格(というか人柄か?)がわかりやすい。実は歴史上の人でそれがわかる人は稀。
浄土宗と日蓮宗は在家仏教の傾向が強い。日蓮宗では法華講。(浄土真宗も講があったような・・・)
さらに浄土真宗だと「節談説教」が教化の手段としてあり、それが落語や講談の源流となった。
※「節談説教 小沢昭一が訪ねた旅僧たちの説法」
なお、日蓮は生前、親鸞を知らなかったし、浄土真宗も宗派となっていなかった。もし知っていたら激しく批判したかもしれない。
ラベル:宗派 仏教