とてもいい天気。
ー秋月龍a著 一日一禅より kingstoneちょい変えー
這自了漢 吾早知捏怪 当斫汝脛
この自了の漢 われはやくねっかいなることを知らば まさに汝が脛(はぎ・すね)を斫る(切る)べきに
ー碧厳禄ー
黄檗和尚が天台山に行った時にある僧と道連れになった。よく見ると眼光人を射て、すこぶる異相の僧である。いくうちに谷川につき当たり、急流ほとばしって渡るすべもない。黄檗は杖をたて笠をすてて、しばらくたたずんでいた。
僧 「(手を引いてあげるから)共に渡ろう」
黄檗「どうぞお先にお渡りなさい」
僧は、衣の裾をかかげて、波をふむことまるで平地をふむようにすっすっと水面を渡ってふりむき
僧 「(手招きしつつ)渡っておいで、渡っておいで」
黄檗「この自了の漢!もっと早く貴公がそんな奇怪な奴と知ったら、そのすねを叩き切ってやったものを」
僧 「あなたこそ真の大乗の法器だ」と言って姿を消した。
自了の漢とは、自分だけ彼岸に渡ればよいとする上座部仏教徒の羅漢(上座部仏教の理想の人間像)を罵る言葉。
へえ、これを読んで、私の書いた
目指せ普通のお坊さん
を思い出しました。
この話、もとの司馬遼太郎さんの話では呪文を唱えたのは修行を積んだ禅宗のお坊さんで、みんなで風呂をわかしたのが浄土真宗のお坊さんという設定になっていたと思います。
それがこの黄檗和尚のエピソードでは、禅宗側が「魔法の力なんて無い」という立場になっている。まあ考えてみれば座禅中に不思議なことが頭の中で起こることを「魔境」と否定する(あるいは低く見る)のが禅だからさもありなんです。「目指せ普通のお坊さん」の場合は庶民から見たイメージというか、浄土真宗の宣伝という感じだろうな。
なお、日本の黄檗宗は1654年(江戸初期)に隠元和尚が中国から日本に来て始めた。本山である萬福寺は京都府宇治市にあり普茶料理で有名。明(この頃はまだ清ではない)の様式をよく伝える。
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