「わかる」と「賛成する」「肯定する」
「わからない」と「反対する」「否定する」
というのは微妙に違うから。
私はもともと、通常校にいる時代にカウンセリングを学んでいました。
肢体不自由特別支援学校(しかし単なる肢体不自由のお子さんはごく少ない。多くは知的障害[自閉症や認知の障害を含む]を併せ持つお子さんがほとんど)時代はとにかくどう表現してもらうかを考えていた。私がAACを学んだのもそういう環境でのことです。
しかし異動した知的障害特別支援学校ではとにかく周囲が「本人からの表現は出させない」「こちらの支持に従わせる」という方向で全て動いていてびっくりしたもんなあ。
それは、ひとつにはお子さんの動きがあるかどうか、の違いによる。肢体不自由のお子さんは動きそのものがあまり無いから、教師も「余裕」がある。しかし知的障害特別支援学校ではお子さんはたいてい動ける。すると教師の方に「余裕」が無くなり、お子さんの動きを止めることばかりに意識が行ってしまう。あるいはとにかく「指示をきかせよう」にいっちゃう。
まあ、またこれは教師に限らず、「専門家」「医師」もだし、保護者もやっぱりそうなっちゃう。
でもな、結局「表現」する方法が無かったら、そして見通しがたたなかったら、それを表すのに周囲の思惑と違った行動を取っても当たり前だしね。(表現する、ってことは「選択」の連続でもある)
また「表現」し、それへのそこそこいい反応(手応え)が返ってくればこそ、初めて適切な選択が何か、適切な表現が何か、本人にわかってくるわけだし。
考えてみると私が学んできたものは
カウンセリング(相手の考えていること、思っていることをはっきりさせ、意思決定につきあう)
AAC(表現、意思決定を出すこと、その方法を作り出し、周囲とのコミュニケーションができるようにする)
TEACCH(周囲の環境、見通し[時間軸]が本人にわかるようにし、本人が表現、意思決定[選択]できるようにする)
ということで、まあ、みんな一緒なんや。
しかし、これらは全て、ある仮説に基づいている。
「人間は条件が整えば成長できる」あるいは「人間は信用できる」
もうこれは「科学」じゃない。「信仰」とか「宗教」の範囲やね。でもってそこんとこが大事なんやろな。(しかしこれは「信仰」がえらくて「科学」が劣る、とか言う話じゃない。また逆に「科学」はえらくて「信仰」は劣っている、とも思ってないし)
ロジャースは最後の方でユダヤ人とパレスチナ人の「和解」を試みたグループセッションを行なっています。もちろんそれは「成功」したとは言えずお大きな潮流を作り出すこともできなかった。しかし、小さな小さなグループの中でお互いを少しは理解しあえる場を創りだしたことは事実だと思います。
コミュニケーションを取り合えることは、私にとってはとりあえず素晴らしいことです。だから教師の多くがそちらの方向へ行きにくい、ということは私にはちょっと理解しづらいことであるけれど、まあ仕方ない面もあるんだろうか。「TEACCHを学びました」「視覚支援をしてます」と言っても、結局は「本人からの表現を」の方向には行かない人が多いのは仕方ないのかな。でも、それってたいてい失敗すると思うけどね。