近代広告の誕生 ポスターがニューメディアだった頃 読書メモ。
著者の竹内幸絵さんは神戸大学大学院国際文化研究科協力研究員
1920年代からの日本の広告・ポスターの変遷を書いてはります。
1925年(大正14年)段階でほとんどが「美人画ポスター」
これは浮世絵の美人画からの伝統だろうな。そういった「絵」のはしにちょこっと宣伝文句が書いてある、みたいな。で、商店主がその絵を気に入ったら貼ってくれる、という感じ。
しかし、その少し前の1921年に朝日新聞社と読売新聞社が「大戦ポスター展」を開催し衝撃を与えた、とある。
欧米では1880年頃から(明治になってから)カラフルで大型のポスターが数多く作られた。
フランスの「絵画のように美しい」ロートレックのポスターとか。
ドイツは「即物主義」のホールヴァインやベルンハルト。
しかし第一次世界大戦で募兵・節約・国債購入・物資提供などを呼びかけるために作られたのが大戦ポスターで、様相が変わる。
1921年、日本画家集団高原会が「ポスター」という書籍を出す。
で、この頃盛んに言われたのが「単化」これはひとことで言えば写実の絵ではなく、単純に力強く外部に訴えかける、みたいなことかなあ。例えばカルピスの黒人ポスターみたいな。

そういや、これ、やっぱり黒人差別だ、ということで使われなくなったのかな。私が子ども時分には使われてたような気がしますが。このポスターは1923年カルピス社(当時はラクトー株式会社)が国際公募したもの。1等から3等まではすべてドイツ。この黒人ポスターが3等でオットー・デュンケルの作品。
で「単化」といっても、たぶん当時の原画を作る技術・製版技術・印刷技術などとのからみもあっただろうな。
1927年(昭和2年)12月30日(年の暮だ)に浅草ー上野間に地下鉄開通。この駅空間がポスターのよき展示空間になる。
1928年(昭和3年)から濱田増治「現代商業美術全集」全24巻刊行。1930年配本終了。一冊一円。
(1926年末から改造社が刊行を始めた円本ブーム)
この一円というのはどのくらいだったのか。後で出てくる記述では今の2000円くらいかな、という感じですが、1000円くらいなんだろうか?
これで濱田は「単化」を広めるが全集刊行後の1932年ごろから「構成」ということを言い出す。
1926年。成文堂が「広告界」という雑誌を出す。これが1941年まで16年弱続いた。この期間「唯一の商業美術専門誌」購読者は街の商店主などの「街の広告制作者」
例えば1920年代後半、小倉の広告工房に見習い職人として入った松本清張が参考にした。当時松本清張は「図案工」しかし、「広告界」の読者は本屋や呉服屋などの商店の店員も多い。
当時、画家から図案工は低く見られ、コンプレックスも持っていた。今で言えばグラフィックデザイナーか。文案工はコピーライターになるだろうし。広告全体を考えるのはアートディレクター?単にディレクターかな?
アメリカで最初に書籍に「レイアウト」という言葉が使われたのが1927年。日本にこの言葉を広めたのは室田庫造で、1929年に「広告界」に「広告面のレイアウト」という記事を書く。
「商店界」という、これまた成文堂の出していた商店主向け雑誌所属記者の長岡逸郎が書いた記事
「糊とハサミの仕事 印刷を想ひ通りにするには 印刷の費用を少なくするには」
という題で
とやかく文句を云はずに糊と鋏で張りっけた方が、はるかに経済的で浪費がない……糊で張付けた割付は、出来上ってから苦情の出る印刷依頼者に、とやかく云はれる恐れが絶対にないばかりでなく、印刷依頼者が満足するまで、校正を何度も出す無駄が省ける。
と書いているのがよくわかる。それまでは、これがなかなか難しいことだったんだろうな。
1930年に中川静(当時神戸高等商業学校[現神戸大])が「広告論」を出版し、レイアウトを解説。
広告学が爆発的に発展していく1920年代から1930年代にかけて、社会科学の知に大きな変化が起こったとして吉見俊哉氏の言葉をひく。
「1920年代から30年代にかけて、ちょうど政治・経済的なシステムのレベルでの総力戦体制の整備と並行するかのように、それまでの19世紀的な近代知とは明確に異なる、より社会政策的とも社会工学的ともいえる社会科学の知が、経済学、政治学、社会学、教育学、人類学、新聞学など、さまざまな領域で同時並行的に台頭」し、それらは「(総カ戦体制下の)同時代の国家的な知の新体制のなかでは、まさしく有用なものとして、必要とされはじめていた」。
吉見は大戦闘期には、それまで帝大アカデミズムのなかで周辺に押しやられていた実学の知が、新しいパラダイムを形成しつつあったと指摘し、これを「社会科学的な知の体制化」と呼んでいる。その例は教育学、経済学、人類学、社会学そして、新聞(宣伝)学、自然科学など多くの分野で見出せるという。
中川静は「広告論」の中でレイアウトマンという専門職の必要性を論じている。
さて中川は『広告論』で、レイアウトマンという専門職の必要性も論じている。レイアウトマン? 今聞くと少しとぼけて聞こえるこの呼称、どんな職業だったのだろう。中川の解説をみてみよう。
〔レイアウトマンは〕広告販売上の理解と兼ねて美術上の熟練を有するものであるを要する。而して又生産品が反映する印象をも創始せねばならないので、心理学の学徒でもあり又構造並に意匠の熟達家たる資格を有せねばならない。
なんとも多くの知識を挙げたものだ。マーケティング、美術、心理学、構造とデザイン。レイアウトマンは、これらのすべて、マルチな力を持つ専門家だというのだ。中川はさらに「レイアウト作家はレイアウトに倣って仕上げの絵画を作る能力をも要するやうであるが、これは寧ろ例外で、必然的な要求ではない」と続ける。このマルチ人間に、描く能力は必須ではないという断言だ。「レイアウトマン」を、ディレクションを生業とする職業として描いている。
で、これを読んでいて思ったこと。自閉症の人と関わる時にTEACCHは「スペシャリストでなくジェネラリストたれ」と言ったわけだけど、それに似てるな。それまで確立していた(と思われてるだけだとも言えるけど)それぞれの専門職をつなぐ存在たれ、と言うわけだけど。まあ、そうなってくるとそれはそれでスペシャリスト化するという矛盾はいつもはらんでいるけど。
1933年。「日本工房」発足。参加者の中に木村伊兵衛・原弘など。
1934年。エリート・デザイナー集団「中央工房」発足。
原は「レイアウト」と「タイポグラフィ」と「写真」の不可分の関係に、最も早く気づいた人物。
1930年代の「広告界」の「広告診療所(広告添削指導記事)」に応募されたチラシに見られる悪い点。
1.文字数が多すぎる(情報過多)
2.レイアウト感覚の欠如。
3.文字への配慮の無さ(フォントやサイズ)
写真がヨーロッパから日本に持ち込まれたのは1848年。
1857年、上野俊之丞(彦馬の父)が撮影した薩摩藩主島津斉彬象が日本に現存する最古の写真。

1867年、長崎の上の彦馬が坂本竜馬を撮影。

1902年、小西屋杉浦六右衛門が六櫻社を設立し、乾板と印画紙の国内生産を開始する。コニカミノルタのコニカの前身。
翌1903年6枚の乾板が装填可能な小型カメラを売り出す。2円30銭。
1912年には全世界で180万台売れたベスト・ポケット・コダックが日本にも輸入される。
新聞広告に初めて写真が使われたのが1905年。しかし、当時の印刷技術では見難いものであったし、経費がかかり過ぎた。
画期的なのは1922年壽屋(現サントリー)の赤玉ポートワインのポスター。

モデルは女優松島栄美子。しかし松島はこの後親戚中に非難され親から勘当された。
また当時はまだまだ「芸術写真」の時代で写真が広告に出てくることはまだまだ少ない。
1929年に室田庫造は「広告界」で良い写真広告の例として「スモカ」と「仁丹」の広告を上げている。
1930年、朝日新聞社の「第一回国際広告写真展」一等1000円。
この時に一等になった「福助足袋」の写真は斬新。
1925年、講談社より「キング」創刊。昭和に入り初めて100万分突破。販売価格50銭。
1917年、主婦の友社(?)より「主婦の友」創刊。1930年代163万分を越えた。1930年代には60銭。
(ここらあたりが先に述べた、1銭が今の20円くらいかな、という根拠にもなる)
1920年代は両誌とも写真広告なし。1930年代にはいって見られるようになる。30年代半ばには「キング」には1冊あたり数点から10点、「主婦の友」は20点くらい(?40の広告の半数、という記述)
1934年、「NIPPON」(対外プロパガンダ誌)を日本工房が制作。
1938年、「SHANGAHAI」
1939年、「CANTON」など占領地向け雑誌を出す。
1942年、「FRONT」(対外プロパガンダ誌)を東方社が制作。
1936年のベルリン・オリンピックの時にベルリンに集まったオリンピック委員会が次回のオリンピック(ってことは1940年)を東京で開くことを決定。日本の組織委の議事録には宣伝・広報の話はなかなか出ず、1937年2月からやっと出始める。ポスターについては「大日本体育芸術協会」にいわば丸投げするが、この協会が選んだ審査員が猪熊弦一郎・東郷青児・安井曾太郎だから完全に画家ですね。まだまだこの認識だったということ。
で、一等になった黒田典夫のポスターは神武天皇と八咫烏を描いていたために発行禁止となる。
1938年5月、国家総動員法施行。
1938年7月、オリンピック返上決定。
1938年、東京府で1939年、大阪府で広告物取締法施行規則が改正された(広告が不自由になった)
1939年、百貨店の大売出し中止の要請。
1938年2月16日、「国策のグラフ誌」である「写真週報」が創刊。内閣情報部発刊。10銭。
そば一杯15銭、「アサヒグラフ」25銭、「サンデー毎日」20銭、「広告界」1円から1円10銭の時代。
一冊を平均10.6人で回覧。
読者属性 学生・生徒45.4%。無職9.8%。工場・鉱山労働者7.5%。会社員等6.8%。商業6.7%。教員4.4%。
読者学歴 小学校卒程度61.8%。中学校卒程度26.6%。高専卒以上7.8%。
林謙一。東京日日新聞記者から1938年に内閣情報部へ。その後「写真週報」の編集者。「おはなはん」の原作者。
林いわく、「写真週報」の創刊の契機は王小亭の「上海の北停留所にただ一人残され泣いている赤ん坊の写真」による日本バッシングである、と。

この写真がアメリカで大きな話題となり、半日感情を大きくしたためにそれに対抗しようとした、ということ。この写真は「やらせ」説が出てます。まあなあ・・・この手の「やらせ」はどこでもありそうだけど・・・
しかし「写真週報」に関する昭和15年(1940年)の内閣情報部の幹部向け資料で「写真週報」の目的について、「対外宣伝写真の蒐集というかくれた任務」「カムフラージュ」っていう言葉が使われているのはなぜだろう?後暗かった?ここは堂々と「集めてます」と言って良さそうなもんだけど。
1941年「広告界」廃刊。もう民間は立ちいかなくなっていたということか。
しかし機材の進歩もあるけれど、第一次大戦時のポスターの量産といい、第二次大戦時の広告表現の飛躍といい、やはり戦争は大きく関わっていますね。
また、この本を読んでみて「プロバガンダ」という言葉は戦前は「広告」とか「広報」「宣伝」というだけのことで、決して「悪い意味」は付与されていないことがわかります。
私が本などを読むころは「プロバガンダ」という言葉には悪い意味が付与され、なんていうか「下品」というか、本で読むことはあっても日常的に使うことは無かったですが。そんな言葉、公開の場では使ってはいけない、みたいな。私が唯一公共の場でこの言葉を聞いたのは
戦いと癒し(2)分科会にて
の時のA教授くらいです。たくさんの人の集まっている公開の場でこの言葉を使うなんて、なんて下品なんだろう、と思いました。
でも、本当のところは「教育」「宣伝」「広告」「広報」「プロパガンダ」「伝道」「布教」「洗脳」「マインドコントロール」って、全部同じことなんだろうなあ、とは思いますけど。
でもって、今は写真を撮ることにしても、レイアウトすることにしても、またタイポグラフィ(フォントやサイズを選び使う)ことにしても、パソコンやデジカメのおかげで劇的にコストが下がってるんだなあ、と思いました。
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