山下清展に行って来ました。

やっぱり惹きつけられます。
千葉県の八幡学園(知的障害者(児かな?)入所施設)に入って、そこから貼り絵(ちぎり絵)を作ることを始めるわけですが、その初期のものから味わいがある。色が全体に落ち着いた色なのは褪色したせいなのかな?もとは鮮やかな色だったんだろうか?その色あいもいいな、と思うのだけど、これはもとはキンキラキンの仏像が黒っぽくなっているのを「いいなあ」と思うようなもんなのかな?
お客さんは結構多かったです。ひとつひとつの作品を正面でじっくり見て解説を読む、ってのができないこともあったくらいには。いっぱいではなかったけどね。会場の駐車場は満杯。私は少し離れたところに止めました。会場の駐車場の方が安い(1時間100円で、かつ入場者割引があったのじゃないかな)のは確かですが、待つ気にはなれなかったです。
以下Wikipediaの山下清から。 1922年3月10日 - 1971年7月12日 3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。 これ会場の解説にもそうありましたが、間違いでしょうね。確かに「脳に酸素(血流)が行かなかった」「脳にケガをした」などで知的障害は起こりうるけど・・・たまたまその頃に気づいた、ってことじゃないかな。それとも「折れ線型」だった??後者もあるかも。で、結構その頃たまたま起こった病気や医療のせいにしてしまう、ってことよくありそうです。
1932年(昭和7年)に父清治が脳出血により他界すると、母ふじが再婚するが、清が小学校(石浜小学校)でいじめられたことを話すと「刃物で相手を怪我させろ」と唆す養父で、清はいじめに遭った際に鉛筆削り用の小さなナイフを手に持つようになり、同級生を大けがさせた事がある。 いろいろあったんでしょうね。また後に母親は子どもを連れて父親から逃げてますからDV夫だったんじゃないかな。
1934年(昭和9年)(中略)同年5月、千葉県東葛飾郡八幡町[1]大字八幡字衣川(現:千葉県市川市八幡四丁目)の知的障害児施設「八幡学園」へ預けられる。この学園での生活で「ちぎり紙細工」に遭遇。 で1936年頃から、少なくとも1938年には個展を開くほど認められています。(ってことは16歳頃からか)
18歳の時に突如学園を後にし、放浪の旅へと出て行った(1940年から1954年まで)。しかも、脱走の翌々年、受けることになっていた徴兵検査を受けたくなかったため、更に放浪を続けた。 これが「裸の大将放浪記」のもとですね。しかし、いろんなところで食べさせてもらったりお金をめぐんでもらったりして、よく放浪が続けられたものだ。1954年に八幡学園の園長に書いたものと思われる手紙がありましたが「るんぺんはよくないのでもうやめます」とかなんとか書いてはりました。もちろん冷たくあしらわれたこともたくさんあったと思われます。
たくさんの山下さんの書いた文が作品の横にありましたが、その言葉もすごいなあ、惹かれるなあ、ってのが多かったです。
山下さんは(吃ってはいたが)音声言語でのやりとりができる。お金の使い方はわかる。人にご飯を乞うことはできる。働くこともできる。(ある時は食堂で働いているところを見つけられて学園に帰っている)ってのがわかります。
1954年以降は放浪ではなく個展をする所への旅になっています。
会場で30分ほどのビデオを流していましたが、制作風景とか八幡学園の感じとかがよくわかる番組でした。(言葉は今聞くと、「ひええ」ってのが多かったですが。また大人の山下さんに対して「山下清君」と言ってるのがめちゃ違和感。もちろん国会とかだったら誰でも君だけど・・・)
元タレントで画家のジミー大西は、画廊で清の作品を観て感銘を受けたことを、テレビのトーク番組で多数語っている。 これは「あっ、ジミー大西さんの作品にも共通するものがあるなあ」と感じた作品がありました。
posted by kingstone at 21:03|
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