私はそれまで「机の前に座ってする学習」が無かった特別支援学校で「机の前に座ってする学習」を1997年4月から取り入れました。
その6月ころの動画がこちらです。
自閉症のお子さんとの授業の失敗例1997年 その後もとんちんかんなことをやり続けていたと思います。
そして、その後12月の動画がこちらです。
2011年7月3日記。この動画はまだまだとんちんかんで失敗している点を自分でツッコミを入れておかないと危険だと思ったのですが、自立課題学習につていイメージがわかない、で、この動画が参考になったと言われる方がおられたので、ツッコミはあとにして、その他を次々上げていきます。ツッコミは途中です。
これも今の私から見れば無茶苦茶とんちんかんなこと、また子どもたちに失礼なことをやっています。細かいツッコミは後にして、とりあえずの経緯を書きます。
なお、先に書いておきたいですが、この時の私は「机の前に座っての学習」にこだわっていましたが、別に机の前のイスに座れないなら、立ったままでもいくらでも学習はできます。だいたいどのお子さんだって給食の時は座っていられましたし。また普通の工場などでも立ったまま作業することだってよくあるわけだし、もちろん座ってできるならそれでいいし、できないならできないでいろいろやり方はあります。
この動画は1997年12月8日12時50分頃。
この年度は「自閉症」と題のついた本を片っ端から読み、TEACCHと名前のついた本も少なくとも2冊は読んでいましたが、何をどうやったらいいかわからず。
その時点ではTEACCHがいいとも悪いとも、何をどうするのかも、全然わかっていませんでした。
10月10日-12日に熊本大学で開かれた特殊教育学会というものに生まれて初めて参加しました。そこで斉藤宇開さんの給食時に「おかわり」という表現を獲得して問題行動 が減った人についての口頭発表がありました。そこにTEACCHという言葉が出て来ました。その時のエピソードがこちらです。
特殊教育学会へ特殊教育学会にて このエントリの中に出てくる「何かのカードを、教師の都合の良いようには使ってはいけなくて、本人の都合の良いように使わなければいけない、とか何とかめちゃ面白い話もうかがうことができたのだけど・・・ああ、肝心の細かいところが思い出せない・・・」というのは「待って」とか「してはダメ」とかの類のカードですね。ついそれを見せてやらそうとしてしまう、って話です。
1997年段階ではっきりそうおっしゃってたわけです。
その発表ににTEACCHという言葉が出て来ました。それは「表現コミュニケーションの大切さ」を教えてくれるものでした。私は「これだ」と思って勇んで学校に帰りました。
そう言えば、帰ってからたぶん月曜日に威嚇と暴力の上手なリーダーさんに「特殊教育学会行ってすごく参考になる話があったわ」と言ったら、「それ民間団体やろ?(そのこころは文部科学省とかの公的機関とかでないから信用できないよ、みたいな意味)」私は「う〜〜ん」と何も答えられませんでした。確かに別に公的研究機関ってわけじゃない。しかし養護学校のリーダーの方が特殊教育学会と言っても話が通じなかったのですね。1997年段階では。
そして金曜日に学年の打ち合わせ(会議)がありました。そこで
撃沈えらいね、かしこいね これはC君についてだったと思います。A君?
まあ、私は異動希望を伝えたわけです。
しかし、その前からたぶん友達が「ええセミナーあるで」と教えてくれて、申し込んでいたので10月25日・26日に開かれた2日間セミナー(しかしそのチラシにはTEACCHという言葉は、チラシの裏に小さく1か所しか出てこない。何故だろう?もちろんノースカロライナのTEACCH部がやっているわけじゃない、というのは確かですが。ひょっとして、当時やっぱり「言ってはいけない言葉」だったんだろうか?)に参加しました。
TEACCHの2日間セミナーへ で、初めてTEACCHというものが少しわかりました。実際に来て下さった自閉症のお子さんとのやりとりを通じて「自閉症のお子さんを信頼していい」ということが実感としてわかりました。そしてそこで「自立学習」というものを知ります。(当時はまだ自立課題学習とは呼ばれていない)そして
2日間セミナーから帰って来て12日間セミナーから帰って来て2 この「2日間セミナーから帰って来て2」は話が2年分凝縮されています。まだ上の動画の1997年12月段階ではA君Bさん2人の担当だったのを、威嚇の上手な超ベテランさん担当のC君を任せて頂いた段階です。10月終わりにセミナーに行き、A君Bさんと一緒にやってみて、これはいいと確信して(このレベルで!!笑)11月半ばには提案し、C君も担当させてもらいました。
いやはや、この動画を見てもまだ全然何ともうまくいっているとは言えないのに、でも私が担当した方がいいだろうな、と判断したわけです。
ツッコミについてはまたにします。(書けるかなあ)
当時の実践部分についてのツッコミ、とかいろいろ。
ビデオを構えつつ「指導(?)」をしています。
50秒あたり、木製ボーリングピンをと片付ける箱を教材にしています。何でも教材になります。しかし、Bさんはちょっとどうしていいかわからず遊んでいるところもあります。Bさんが「自分でピンを持つ」はやっているので、たぶん私はBさんの腕でなくピンを一緒に持って入れることを試みています。
58秒あたり、A君が木製のジグソーパズルをしています。
なお、1997年4月からたぶん10月末までは私は子どもたちと対面して学習をしていました。しかし10月末に「この自立課題学習は『ひとりでわかってできる』が大事なのであって対面する必要はさらさらないし、時には不必要な刺激を与えてしまい『ひとりでわかってできる』ことへの害になることもある、ということがわかりました。
そこで机を壁の方に向けました。それが4月からの大きな変化です。
また、机の前に「赤い鳥居」みたいなマークがあり、そこにその「赤い鳥居」マークのカードが突っ込んであります。
これは「勉強する机の所に行ってね」という意味を伝えたいと思い、「机」のマークを作ろうと思ったのです。それを少し幅広にして目立つようにと思って赤色にしたのですが、他の方から「その鳥居のマークなに?」と尋ねられ、あっ、ほんま鳥居を簡略化したと思われるなあ、と思いましたが、子供たちが慣れてしまっていたのでそのままにしていました。
A君の場所とかBさんの場所とかの差をどうやって伝えていたのかは覚えていません。ルーチン(習慣)だったのか?机の上にもそれらしきシンボルは見当たりません。ひょっとしたらイスの背もたれにそれぞれのお子さん個別のシンボル(紺色の△だとか、赤色の◯だとか)を貼っていた可能性はあります。
1分あたり、私がA君を「コラコラ」と言いながら名前を連呼しています。もちろん私の場の設定のミスなわけです。人ってものは当然こちらの意図とは違う行動をとってもいいのですが、この場面では「見てわかるように」教材そのものを設定し、ジグ(作業の補助のために使う道具)やワークシステム(学習や作業の流れがわかるようにする仕組み全体。手順を書いたものもこれにあたる)を整えることで、そんなに連呼する必要が無いようにできるはずです。「人を枠にはめるようにする」とかいう話じゃなく「相手にわかるように提示する」ってことが必要なのです。
また、他のお子さんにはそれほど連呼していないのにA君には連呼してしまっているのは、A君は音声を出す(遅延性エコラリアがほとんどですが)ために、私が無意識に「音声言語で言ってきかそう」としてしまっている面があったと思います。
1分あたりC君がやっているの自分の名前に使われている字を1字ずつ書いたカードを、それが1枚ずつはられた仕切り(お菓子を入れていた仕切り板)に分類して入れる作業。もちろん「字がわかっている」わけではありません。「字の形のマッチング」をしているだけです。しかし、たぶんそんなことができると思っていた人はそれ以前は学校の中にはいなかったでしょう。
1分6秒あたりにあるのは「くっついているボルトナットを外す」という作業です。何も作業のやり方を示すものがない、かなり不親切な課題ですが、後の場面にも出てきますが、みんなできていますね。
またこのあたりで机の前にはまだ「どの課題や作業をするのか」といった手順を示すものが何も無いことがわかります。ワークシステムの一部ですね。この段階のワークシステムは
「机の左側に置かれたカゴの中に入っている教材を、上のカゴから順番に」
↓
「自分の机の上でする」
↓
「できたら机の右側に置く」
という形で全員しています。最後の「机の右側」に「おしまいボックス(終了箱・単なる段ボール箱を使っている)」お子さんもいれば、使っていないお子さんもいます。しかし、机の左側・右側と言っても、床に置いているのでイスに座った状態だと取り上げにくく、置きにくいものになっています。
その後、同じ高さの机を左側に置き、教材の入ったカゴを取りやすくする、おしまいボックスはイスの上に置く(こうすると机から右にスライドさせるとそのままおしまいボックスに入れやすくなる。高低差も少なくなるので「落とす」という感じが少なくなる)ということで対処していきましたが、この動画の段階ではまだそれに気づくことはできていません。
あれ?1分15秒あたりで、「ボルトナット」を机の上に出したまま、「トンカチで打ち込む」の課題をやっていますね?いったい何がどうなったのかは覚えていません。
1分15秒あたり、C君が立ち上がっています。これはC君も「ナットをボルトから外す」という課題を彼がセットしたのか私がセットしたのかはわかりませんが、机の上に出しているけれど、いったい何をどうやっていいかわからないから立ち上がっている状態なわけです。名前を一度呼んでいますがA君の時のように連呼はしていません。
で、たぶん「声かけ」ではなく私が近づいて、指差しでもしたのじゃないかな、と思うのですが、彼は「座って何かをやる」ということはわかったようです。ひょっとしたら体に軽く触れ座らせたかもしれません。しかしその「何か」はわかっていないので、(たぶんカゴの中にあるボルトナットをたくさん掴んだのはC君で、私は彼の腕を軽くとってそのうちの1個にはたらきかけることを伝えたのだと思います)1分25秒あたりでカゴの中の白いバット(100円ショップで3個105円とかの)を、私が出してそれぞれに分けて入れることを伝えようとしています。いやはやそれはいきなりカゴの中に白いバットを入れて用意していても何の手がかりも無かったらわからなくて当たり前、というやつですね。しかし、このようなことを何回かやるとC君はこれだけの手がかりで自分で判断しやってくれるようになりましたが。
1分48秒あたりのA君がやっているのは「友達の名前をひらがなで書いたカードを分類する」です。この時点でA君は絵本も大好きだったので「単語」を「単語」としてわかっていたと思います。A君はさっさと分類してマッチングすることができています。
1分40秒あたりでBさんの上体が折れてしまっていることがわかります。これは「疲れた」「しんどい」もあるかもしれませんが、この場合は「やることがわからんなあ」ではないかと想像します。それがわかる映像が後で出てきます。
ちょうど、自立課題学習をする時の、介助のしかたのいい例が映っています。「できるだけ引く」という感じですね。
2分35秒あたりからですが、それ以前にBさんがぐちゃっと「つぶれてる」映像もちらっと映っています。
2分44秒あたりか。教材をセットするのができなくて(というか教材が床に置いてあったのでBさんに非常に取りにくかった。これは私の環境設定の失敗)私が机の上に教材を置きます。
で、私の意図としては「レゴブロックを同じ色同士集めて入れる」という課題をやって欲しかったのですが・・・見てもらったらわかるように、最初に「集めて入れられた状態」で、それをBさんの前でばらまいている・・・
これはBさんに対してめちゃ失礼。Bさんは怒り狂っていいレベルのやり方です(^_^;) でもBさんはやってくれるわけですが。しかし、本当は「見れば何をしたらいいかわかる状態でないとまずいのですが、見てもいったい何をどうしたらいいかわからない状況ですね。
で、また2分58秒あたりでわかると思いますが、白い枠に1個ずつ見本となるレゴブロックをセロテープなどで固定しときゃいいのに、それをせずBさんの目の前でレゴブロックを放りこんでます。これまた失礼・・・
ま、でもBさんはやってくれるわけですが・・・
でもBさんは最初、なんのこっちゃ?状態です。で「これは私の意図は全然伝わっていないな」と判断した私は、まず3分14秒あたりで、Bさんの腕を持ってブロックの方まで持って行きます。しかしまだ何をするのかわからない。
だから3分18秒あたりで、私はBさんの手を包みこむように持ち、一緒にブロックをつかみ、白い枠の方へ持って行きます。
次に「ブロックを持つ」ということはわかったかな?と判断して、今度は手首のみ持ちます。Bさんは青ブロックを持ってくれました。そこで手首を持ち、青のところへ誘導したらBさんはその上でブロックを放してくれました。
そこで、私は「もうBさん、わかったかな、どうかな」と一度Bさんから離れます。
その間、声かけはいっさいありません。そしてその後、Bさんが「ひとりで」やっている映像があります。
4分13秒あたり、Bさんが止まってしまっていたので、私は腕を取ってブロックの上まで持って行きました。で、それだけで後はまたBさんは「ひとりで」できはじめました。
最後、できあがった課題を「おしまい箱(終了ボックス・フィニッシュボックス・・・って単なる段ボール箱ですけど)」に入れるところはまた手伝ってます。これはやり始めて間が無いころだった、といいうのもあります。
必要なプロンプトは出して、しかしできる限り引く、その感じですね。不必要に手とり足とりすることはありません。
また同時に、Bさんの背筋がピンとしていることにも注目して下さい。わかってできることがない常態ではつぶれていたBさん、シャキッとしてきました。そういう意味でも「わかってできる」ことは大切ですね。
自閉症の人の自発性とか表現コミュニケーションとか