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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2011年03月03日

「市立特別支援学校 6校を県立に移管」という報道に関して

東京新聞 「市立特別支援学校 6校を県立に移管」

 群馬県の話です。
 この記事についてTwitterで

「市立を県立にして何かいいことがあるんだろうか?」

とつぶやいたら、いろいろなご意見を頂いて面白かったので私の意見をまとめて書いておこうと思います。

 まずこの記事は

「県教育委員会は二日の県議会文教警察常任委員会で、特別支援教育を一元的に展開するなどの目的で、県内六市の市立特別支援学校を県立に移管する方針を明らかにした。」

ということで、その理由として

「県教委は「特別支援学校へ通う児童・生徒数が急増する中、学校運営に関する各市の財政負担が重くなっている」と説明。」

ということなわけです。つまり児童・生徒の急増が背景にある、と。それとお金が無い、ということ。これ、いろんな地域で「特別支援学校を作れ」「市から県に移管せよ」という声が上がっています。

 ところで、確か、もともと「教師」の給料は市立の通常校であっても県から出ています。国からも半分出てたかな?もちろん市立だと、他に市からの給料を貰っている職員もいるし、その負担があることは間違いないでしょうが。

 また、お金って、市には無いけど、県にはある、ということでしょうか。県だって無いんじゃないかな。

 もともと法律で「養護学校(特別支援学校)の設置義務は県にある」と決まっています。しかし市立は「にもかかわらず」それぞれの市(地域)の人の願いで作られてきたものです。

 で、お金をかけて特別支援学校を作ればいい、という話ではないと思うのです。

 特別支援学校へ子どもを通わせたい、ってニーズは何故出てきたのでしょう。

1.子どもがこちらの言うことを理解できない。
2.子どもからうまく表現できない。
3.様々な医療行為が必要である。(排痰・経管栄養・導尿・その他様々な配慮)
4.専門的な様々な教育を受けて社会参加できるようにして欲しい

などかな。で、昔よりそのニーズを求める保護者が増えた。また、今までだったら通常学級や特別支援学級で過ごしていた子について、支援が必要だということがわかって来た。というあたりでしょうか。あんまり本人が望んで、という場合は少ない。(ただし、通常校でいじめられて本人が希望して来た、という例は昔もありましたし、今も増えているとは思います)

 しかしながら、これら1.〜4.のニーズは、実は「特別支援学校に行きたい」というニーズではなくて「1.〜4.の問題を解決したい」というニーズではないでしょうか。たぶん地域でこの問題を解決できるなら、別に特別支援学校に行きたいというもんでもないような気がします。

 と書いているからと行って、私が「どの子も同じ通常学級で同じ授業を受けなければならない。あるいはそうしたらみんな幸せになれる」と考えているわけではありません。そのような考え方(イデオロギー・思想・哲学と言ってもいい)がある一定の役割をしてきたことは認めますが、私の考えは全然違います。むしろそれによって大きな被害を受けていたお子さんを知っているので。

 私の考え方(イデオロギー・思想・哲学と言ってもいい)は、「ひとり、ひとりに合った支援があっていい。合った場があっていい。人の指示に従えばええと言うもんやない。ひとりひとりが選択し、表現でき、参加したい場に参加できたらいい」みたいな所かな。

 特別支援学校という場もあっていい。確かにそこは、子どもにとって「守られた場」であり、教師にとっても「守られた場」になりえます。

 肢体不自由特別支援学校に中学校から異動して来た先生が、「この学校はいい。先生たちが本当に子どもたちが登校して来るのを歓迎している」とおっしゃったことがありました。(しかし、それは当時の中学校の状況のたいへんさを表しているのかもしれない)

 またそこは教師が大事な知識・技術を身につける場でもあるはずです。(のはずだよね)

 それから県立に移管してのひとつの心配は、人事異動が県立の特別支援学校間の異動になってしまわないか、という点。

 市立だと人事異動は市立の小学校・中学校間でもおおいに行われると思います。つまり通常校との異動が頻繁に行われます。それってとてもいいことだと思うのですね。

 特別支援教育にも専門性は必要です。そしてよく忘れられるのですが、小学校・中学校の通常学級にも専門性は必要です。お互いリスペクトしあい、交流することで、お互いのいい部分を学びあえるはずです。

 そして特別支援学校で専門性を身につけたら、どんどん小学校・中学校の特別支援学級の担任になって地域の特別支援教育を支えていったらいいのじゃないでしょうか。

 私は、通常校から肢体不自由特別支援学校に行って、「立つこと歩くことができる」ってことがどれだけすごいことなのか、というのがよくわかりました。

 また私は知的障害特別支援学校で「子どもに合わせた教材を作る」というのは熟練していきましたが、それが小学校では何年生のレベルか、というのはわからなくなっていました。あるお子さん、私のもとで進んで勉強するようになりましたが、通常学級の先生に聞くと、「新1年生のレベルに行ってないね」と即答しました。なるほど。それまでそのお子さんは高学年の学習を教師からも保護者からも迫られていましたが、「それは違うよ」ということが言えました。

 なんて言うのかな「子どもを比較しちゃいけない」というのも本当だし、同時に「子どもを比べなくてはいけない」というのも本当。通常学級しか知らない、特別支援学校しか知らない、というのじゃ困るような気がします。

 まあ、Twitterでお話をうかがっていると、県立でも市との交流はある、という話も聞きますが。

 また交流が知識・技術に関する情報の交換であるなら、市立であっても、県立の学校と様々な情報交換をすることは可能だし、既に行われています。例えば

県の肢体不自由特別支援学校の情報機器利用担当者会をどうやって作ったか

 私の勤務していた学校は県立ではありませんでしたが、県内の肢体不自由特別支援学校の「自立活動」の担当者が集まって情報交換をしていたわけです。また私がきっかけになって新たに「(県内肢体不自由特別支援学校)情報機器利用担当者会」を作ったわけです。また市の「情報機器利用担当者会」は、県よりももっと私が中心になって作りました。

 必要な知識・技術を教え合う会は、市立であろうと県立であろうと作れます。

 少なくとも、昔は県立が知識・技術のレベルが上で市立は知識・技術のレベルが低いなんてことは無かったような気がしますが。

 ただし、知的障害関係については、私の勤務していた頃、学部研修・学校研修・その他教育委員会の研修など組まれていましたが、まともに役に立つものが無かったのはブログに書いてきた通りです。つまりその状態ではいくら特別支援学校を作ろうが意味がありません。

 また特別支援学級については、校内では私が時間を見つけては他の通常学級の先生に伝えましたが、あまり時間が取れなかったのは確かです。また週に1度ある研修は「研究授業の指導案」の検討が主で、これがまた具体的な実践の話だったらいいんですが、たいていはその「指導案」の文言をひねくりまわすことに時間が使われ、私にとってはたいへん苦痛な時間であったことは確かです。それより教材を作りたいなあ、と思ってましたから。また地域の特別支援学級担当者の研修では、特別支援学校から異動した頃は私から情報を出すことが多かったですが、指導主事が私と違う考えの人が指導助言に来るようになってからは、発言してはまずかろう、と黙っていることが多くなりました。

 ってことは、やっぱりまともな研修体制は無かった、ということですね。

 いくら人件費をかけて特別支援学級担当教師を増やそうが、いくら人件費をかけて特別支援学校を作ろうが、まともな研修なしにそれやっても、まあ混乱するだけだと思います。

 で、よき研修があれば、地域の特別支援学級で、また通常学級でできることは多くあると思います。その考えの一端が、

アスペルガー症候群のお子さんが入学に際して通常学級で加配もつけてもらえない話

であり

特別支援学級で在籍数は増えるのに人手もお金も増えない場合

です。

 広域のでかい立派な特別支援学校を「新たに」作らなければならない、ってもんでもない。

 お金は大事だし、かけるところにはかけなければなりません。でもあまりかけなくてもできることはいっぱいあります。

日本魚雷艇物語 今村好信著

 図書館で借りて来ました。


 
 面白かったです。いろいろやってて半分しか読めていないのに返却しないといけないのが残念。

 著者今村好信氏は東京帝大工学部を出て日立に入社。その後海軍短期現役技術士官となり、敗戦後日立や子会社でえらいさんとなられた方。

 魚雷艇は、当時の大艦巨砲主義の時代にあって無視されていたものが、昭和17年9月、ガナルカナル島での戦闘でアメリカが投入し、その戦力にびっくりして急遽開発されたようです。

 日本軍のガ島への物資補給はアメリカ軍が「東京急行」と呼んでいた艦船に寄るものでしたが、それをアメリカ軍の魚雷艇がどんどん沈めていった。この時にケネディ中尉(後のジョン・F・ケネディ大統領)の乗船していた魚雷艇PT109が、駆逐艦「天霧」に衝突切断され、浮遊する挺にすがって、辛うじて無人島に泳ぎ着いた話は有名です。

 著者のついた短期現役技術科士官というのは、理工系大学・高専卒業生の志願者より選抜し、2年間の勤務後に予備役に編入され、原則的に卒業時に就職した勤務先企業や大学官庁などに復職する制度。これいいなあ。教育界・特別支援教育界にもこんな制度を作ったらいいのに。著者は17年9月採用の1期で青島で研修を受ける。

 著者は呉工廠機械工場に勤務します。この工場は主要艦船の主機を造る。著者は歯車、フライスなどの小物部品を加工する機械グループ、運搬機(クレーン)、工場内機械の修理改善を推進する部署へ。

 担当部分に関する管理責任や定型的でない仕事の処理が任務とのことですが、何というか、仕事が円滑に進むためのシステム作りというか、たぶん、学校で学んだこととは全然別のことでとまどわれただろうと思われます。

 この時、机を並べていたのが伊藤高技術中尉。しかし、机を並べていてもお互い何をやっているかは全然知らなかったそうです。この本を書かれた時になって魚雷艇建造に関わっていたということがある程度わかったようですが。伊藤中尉は本部の矢の催促のもと、文字通り不眠不休で働いていたとか。しかし新開発のものであるだけに、現場の者には製品(部品もだと思われる)の管理がままならず、伊藤中尉の思うようには生産が進まなかった。著者はわからないまま「任務上工場内を回っているので、部品の所在を見つけ進行状況をレポートすることはできる。私にできることがあれば、何なりと遠慮なくいってもらえればお手伝いするよ。無理をして身体を壊さないように」と伝えますが、伊藤中尉は申し出を受けなかったそうです。

 そして自決。

 完全に過労状態ですし、また卒業してすぐの人間に、本来になわせるべきでない困難な連絡調整をになわせた、ということもあったようです。

 また開発された魚雷艇のエンジンは、うーーん、名前は忘れましたが航空機の「転出エンジン」とかいうもので(「転出」という単語は間違っています。本を返却してしまったので確認できなくなった)それって、何かと思ってたら、耐用年数が過ぎた飛行機のエンジンを保管していた物を転用したとか・・・末期状態ですね。

 魚雷艇の艇体も、外国は金属ですが、日本は木造だったとか。

 速度も確か1号挺は20ノット台しか出てませんでしたし、改良されても30ノット台。アメリカなどは40ノット台。

 また戦争末期は固い合金を造るための材料が不足し、別の材料を混ぜた合金を使ったため、送られて来たクランク軸(つまりすごく強くなければならない)が、呉で梱包を解いたら真っ二つに折れていた、ということも起こったとか。



 日米開戦当時特攻艇製造の意見は出たが、非人道的という理由で採用されなかった。しかし昭和19年4月。軍令部は艦政本部の技術陣に提案をした。それが震洋。

 またこの本では名前だけ上げられているのが蛟龍・海龍・回天。陸軍でも特攻兵器を作りフィリピンで使用したそうです。

 もっと、もっと、技術的な話の引用をしたかったのですができなくなって残念。

 しかし、技術、またその背景にある思想の話など、教育技術にも同じことが言えるなあ、と興味深かったです。





posted by kingstone at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ボランティアさんが「懲りたのでもう来ません」と言った話3

 大昔の話です。

 特別支援学級にいた頃。


 kingstone先生、 〇〇です。
 ありがとうございました。何か楽になりました。

 本当に先生のような「つなぐ人」が欲しいと思います。

 親の会では、まだ新人の私のようなものはずきっとくることばかりです。でも、ボランティアさんって考えてみたらまだ10代の方が多いんですもの、(うちにもグータラ高校生がおりますが、)まずは参加してくれるだけでも嬉しいことなんですよね。

 お互いに育ちあっていけたらいいなぁと思います。

その年の開幕、阪神が強かった話

 大昔の話です。

 特別支援学級にいた頃。


 ◯◯です。あまりにゴミで、読まんでイイデス。

 そろそろ新学期の準備、兄貴が散髪屋に行きました。
 さっぱりして、帰ってきた兄貴を見て、珍しく、□□も「散髪」と言い、予定してなかったけど、行ってきました。

 兄貴の行く散髪屋は駅の近くにあって、そこの親父は、店のある側(東口)が活性化されなかったことから、かなり世間に不満をもっているようです。

 夕ご飯のとき、「あんなあ、散髪屋のおっちゃんが、『日本は変や!』言うてたで…」と兄貴が話すので、「なんで?」と聞くと、「政治家も変やし、それに、阪神が開幕3連勝、ほんまに変や!言うてた…」

 …阪神のモチベーション、いつまでもちべーしょん!
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 kingstoneです。

 ほんまに変や・・・・

 4連勝してもた・・・今日なんか、「強い」って感じやったもんなあ

追記
 ところで・・・おにいさんが散髪して来たのを見て自分も散髪に行こうとする。
 モデルですね。
 いいモデルがいるって大切やなあ、と思います。
posted by kingstone at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグビー・スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

テレビ番組で視覚支援を当たり前に使っていた話

 大昔の話です。

 特別支援学級にいた頃。


 こんばんは。◯◯です。

 「ニッポンのおかあちゃん」というTV番組に、自閉症児とそのお母さんが出てました。何組かの親子が出てる中のひとコーナーです。

 内容は、自閉症児とお母さんが、カナダまでアザラシの赤ちゃんを見に行く、というものでした。

 でも、内容そのものより、部屋の奥にあったものが気になった私・・・。

 手作りのプレートに「□月□日□曜日」と書いてあって、□のとこには、ダンボールに書いた月日と曜日。

 横には、沢山撮ってある写真をパウチしたもの(山のようにありました)。

 お母さんが、それを使ってるところも映ってたのですが、やはりアザラシの赤ちゃんの方にTVの意識は行ってるので、素通り状態でした。

 でも、何気なく見たTVで視覚支援を目にするなんて、ちょっと嬉しかったです。凄く当たり前に使ってはったから。

追記
 こういう番組って、ディレクターかプロデューサーか知りませんが(放送作家かな?)、そういう方が「よし自閉症児を抱えた親子がアザラシの赤ちゃんに会いに行くドキュメンタリーを撮ろう。うむ、感動ものの映像が撮れるぞ。じゃあAD(アシスタントディレクター)の□□君、それにあいそうな自閉症児のいる家庭を探して来てくれたまえ」みたいなところから始まることが多いようです。

「自閉症児を知ってもらおう」「やりとりしてるって感動じゃん、そこ撮ろう」なんてところからの発想ではありませんから。

 でも、「普通」にやってりゃ、見る人が見ればわかるんですよね。

 昔は「そこで感動したらあかんやろ。それ虐待やん」みたいなシーンが放送されることが多かったような気がします。私の見たものでは「運動会で先生が押さえこんで参加させ、運動会終了後お母さんが厳しい顔で『よく頑張った』と言う」とか。

 でも、最近はいいのも増えてきたような気がします。

3月3日(木曜日)  ひなまつり

 おはようございます。

 空の上のほうはすごくいい天気。
 遠く、水平線の方には雲が続いています。

ラベル:挨拶 天気
posted by kingstone at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする