私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2011年02月18日

今日のiMac Google IME のことなど

 「ことえり」で「集合マーク」を表示しようと思ったら、どこで入力したらいいかわからないことをTwitterでつぶやいたのです。するとGoogleIMEがいいよ、というつぶやきを返して下さったかたがおられました。

 私としては、「ことえり」もまだ使いこなしていないから、それやってからダウンロードにも挑戦してみよう、と思ってました。しかし、それから1時間ほど、どうにもこうにも使いづらい。

 そこで、Google IME と入れて検索。でダウンロードしました。

 使ってみると、おおお、良いですね。例えば「ことえり」の場合、「◯◯」と書いてすぐ後に「特別支援教育」と書こうとしても「と区別」と変換されてしまい、それを消してからやっと「特別」と入力されます。つまり前に名詞(あるいは単語)が来たら「と区別」と判断して頑固に変えない、という感じ。

 しかしGoogleの方はどんどん柔軟に学習していく感じ。時々「こんな当たり前のことが変換できないのか」というのもありますが。

 結局、記号についてはまだやり方はわかりませんが、でも入力がすごく速くなりました。あと「・」が右手小指1本の入力でできるのも嬉しい。

 でまた上記のことをつぶやいたら「きごう」と打って変換してみたら、とヒントをもらい、やってみたら集合の記号「⊂」も出てきました。ちなみにどんな文が打ちたかったかと言うと

「ASD(自閉症スペクトラム障害)<発達障害」あるいは「ASD⊂発達障害」

という文。

 それから書くのを忘れてましたが、起動・終了がめちゃ速いのと、少し離れていると画面が消えるのですが、これはスリープというのとは違うのかな。これもマウスを動かすとかキーを打つとかするとすぐに明るくなります。
ラベル:iMac Google IME
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満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年 神奈川新聞社編集局報道部編

満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年 神奈川新聞社編集局報道部編


 中国残留孤児支援家菅原幸助さんの生い立ちを追いながら、当時の日本と満州のことや、中国残留孤児(と言ってももうおじいさんおばあさんですが)のことを書いた本。

菅原幸助Wikipedia

(すがわら こうすけ、1925年(大正14年) - )は、日本の中国残留孤児支援家。(社)神奈川中国帰国者福祉援護協会理事長。山形県鶴岡市出身。

 丁度、亡き父や叔父と同じ世代の方だ。

 尋常小学校高等科(12〜3歳頃)航空兵を志願するも、「小さい体では合格できない」と言われて断念。

 家族からは中学進学を期待されていたが、成績はかんばしくなかったらしい。

 お父さんは商売をしていたが、一度だけ菅原さんに「俺だって土地があれば農業をしたい」と愚痴ったそうでそれがすごく印象的だったとか。

 1938年尋常小学校の体操場(体育館)で映画と陸軍大尉の講話。
 満州の雄大な農場を耕す様子。匪賊の襲撃。立ち向かう男たち。「五族協和」「王道楽土」「理想国家の建設」といいうような文字。(と映像があったんだろうな)そして

「満州は広い。一望千里の大平原だ。田舎ではせいぜい、五反百姓しかできないだろう。君たちは満州で二十町歩、三十町歩の大地主になれ」

 で菅原さんは、すぐに担任に行きたい決意を述べるが、「両親の承諾が必要」と言われる。

 菅原さんは親に内緒で書類を作り印鑑を押す。

 13歳の少年が自分の進路を考え、満蒙開拓青少年義勇軍に申込むとは。今の、中2ですから・・・

 家では大反対され、父親が学校に取り消しに乗り込むが、県庁に電話したところ「いったん申し込んだものを取り消すと重営倉だ」と言われて断念。しかしこれは嘘であったらしい。前年(第1回募集)は応募が殺到したが、2回目のこの年は出足が鈍ったらしい。

 実態みたいなものが漏れ聞こえ始めていたのかな。

 1939年3月21日に、茨城県の「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所」に入所。同期300人。みな14〜5歳。ここは敷地40ヘクタール。ここで3か月の基礎訓練を受ける。宿舎はモンゴルの包(パオ)を模した形。形状から「太陽すなわち天照大御神を象った尊いもの」と教えられていた。

 体格の良い200人はモンゴル隊に選抜。菅原さんは満州隊。

 農本主義者である加藤寛治が所長。

 午前6時不寝番(!)の掛け声で起床。「宮城遥拝」「日の丸掲揚」「君が代斉唱」「やまとばたらき」と呼ばれる体操。

 この頃を思い出し菅原さんは「内原時代の生活には感謝している」と言ってはります。

 1939年6月11日。新潟より渡満。

 6月15日、月山丸は緒線半島北部清津に着。そこから鉄道で寧安訓練所に向かうが、朝満国境を超えたあたりで銃撃される。

 青少年義勇軍は、現地の訓練所で3年の実践的な指導を受けることになっていた。ということは、「農学校」に入った、というような気分でもあったかな。

 現地での看板は「満州開拓青年義勇隊」「軍」でなく「隊」にしていた。授業は内原訓練所と同じようだと思うのだけど、午前が軍事教練で午後が農業について。菅原さんは何かの係になって軍事教練を免除されていたとか。

 菅原少年は「五族協和」の理想を信じており、現地の人を差別する意識はなかったが、休みの時に現地の人の村に行ってみたところ、子供たちに冷たい視線で見られ、さっと逃げられる。

 訓練所では「他民族を敬せよ」と叩き込まれたが。

 みんなで集合して写っている写真があるが、左端の人が一人小銃を構えている。

 哈達河(はたほ)開拓団の山崎さんという人のもとでホームステイをして農業を学ぶ。山崎さん自身も「中国をよく知りなさい」と言っていたし中国語をよく覚える。

 山崎さんの元で働いていた中国人、李さん。他の中国人労働者を束ねるような立場。しかしある機嫌の悪い時

「是的土地、我的土地!」と叫ぶ。しかし菅原さんには意味が全然わからなかった。

 菅原さんには山崎さんが理想的に思えた。山崎さんは敗戦時の麻山事件で死亡したと思われる。

 1942年。6月。五か樹義勇開拓団の一員となる。20ヘクタールの土地が与えられた。(正確には6人に120ヘクタール)しかも既耕地であったと考えられる。

 「満州国史・各論」では32年の記述で1人5円で円満に立退きと書かれている。しかし菅原さんの母が着物に100円を入れていてくれたエピソード。満州から山形まで帰郷するにはお釣りが来るほどの大金、との記述がある。当時の交通費は今の感覚より随分高かったとしても、例えば100万円と考えても5円だと5万円。それで土地を買われたら恨みは残るな。

 1934年3月には土龍山事件も起こっている。

 入植してから、その土地の実力者王さんと親しくなる。私兵もいる、城壁の中に住む人。王さんからは「娘を嫁にもらってくれないか」と言われる。それは実現しないまま入営することになるのだが王さんは「帰って来るまで待っているから」と言って見送ってくれる。

 王さんは戦後、対日協力者として人民裁判で殺される。

 1994年、9月1日。関東軍入隊。

 初年兵時代はものすごい暴力を受ける。

 銃撃練習の時は200m先の人形をねらう。しかし一度、数人を銃撃の的として殺した。上官は「死刑囚だから」と言っていたそう。

 燃料輸送の途中で苦力に粥を恵んでもらう。その時

苦力「日本は負けるよ」
菅原「そんなわけはない」
苦力「中国に負けるんじゃない。ソ連に負けるんだ」

 1945年2月。「北京官話二等通訳試験」に合格すると「なら歩兵はもったいない。憲兵学校に推薦するから諜報活動の勉強をするように」と言われる。

 3月1日。「関東軍憲兵教習隊」へ。他の者は一等兵になるところを菅原さんは上等兵に2階級進んだ。ここでは暴力は無かった。途中に何度もある試験に不合格だと原隊復帰となる。菅原さんの原隊の兵士はほとんどが沖縄戦で死んだ。

 8月9日未明。非常呼集。

「ソ連軍が攻めて来た。お前たちは今すぐ任官だ。座金(バッジ。候補生を表す)を外せ!」

 任地を言われる。上等兵から兵長に階級が上がる。しかし中国語ができることがわかると

「避難列車を仕立てることになった」2000人が乗り込む。この列車を警護し、乗客を無事に日本に送り届けることが諸君の任務だ。これは絶対命令である」で「撃ち合いよりも、金で解決しろ」と100円札のぎっしり入ったトランクを渡される。階級も伍長に。(兵長になって数時間後)

 ここまで読んで、情報がある軍関係者は真っ先に逃げたのじゃないか、と思っていたのが、違ったのかと思ったが、後ろを読むと「高位高官」「その家族」のための列車であったらしいです。当初は「民ー官ー軍」の順の予定だったものが逆になったとのこと。

 途中、崖を爆破され線路が土砂に埋まったり、運転手が逃げたりしたが、すべて金で解決。しかし連れてきた運転手の頭には銃口を向けていた。

 草原で水汲みのために停車し、多くの人が水汲みに出たところで襲われる。菅原さんも拳銃で応戦。そして列車は出発。取り残された人が何人か出た。

 1945年。8月15日。平壌。玉音放送。

「感慨にふける余裕なんか全然なかったんだよ。忙しくて」

 翌16日。将校の妻たちが白装束で首や手首を切って死んでいた。

「日本人女学校の生徒を、平壌神社そばの講堂に避難させる。ソ連兵に強姦される前に、若いお前たちが大和民族の血を継がせるのだ」

 実際に準備はしたのだが、その夜、神社が焼き討ちされ、実行には移されなかった。

 9月上旬。山口県の小串上陸。

 任務を終え、一緒に帰国した同僚が寝そべりながら言う。
同僚「なあ、自決するか」
菅原「そうするしかねえよな」
しかし
「軍部中枢が帝国ホテルに集まっているらしい。とりあえず東京に向かおう」

 1945年9月半ば、憲兵隊に出頭すると、そのままGHQの指揮下に組み込まれた。

 宮城前では青年将校たちが毎日のように自決し、死体の山を築いた。与えられた任務は、まず死体処理だった。

 ここまで読んで、自決した人、本当にたくさんいるんだな、と思いました。

 石原莞爾の講演内容が伝わった。
「俺は諌めたのだ。なのに東條の奴が言う事を聞かんから、こんなことになったんだ」

 漏れ聞いた菅原さんを含む十数人の青年将校が帝国ホテルの石原莞爾を取り囲んだ。

「国が滅びそうな時に、あまりにも無責任な発言ではないですか!あなたを殺す。そして自分らも死にます!」

 石原は、日本の将来を朗々と語り、最後に

「わしの首はやるが、君たちは死んではいかん。君たちのような若者が死んだら、この国を誰が再建するんだ」

 10月下旬、除隊。その夜ある上官。

「よいか。再び戦う時は必ず来る。地下に潜って秘密結社をつくる。来る時にそなえて指令を待て」

 菅原さんは「暗殺指令」を受け、実際に訓練もさされた。1人殺せば報酬は2000円。実際に「集合せよ」という連絡が来たが、
「行かなかったよ。しかし当時2000円といえば大金だ。そんな資金を捻出する組織がどこかにあったのかねえ」

 菅原さんは故郷に帰り「いかに生くべきか」に悶々とする。そして石原莞爾が開いた「西山農場」へ。しかし西山農場は5反ばかり。菅原さんの大農場経営の知識も役に立たなかった。

 最終的には25歳で就職。これが庄内日報。その後朝日新聞に移る。

 1978年、中国人留学生と会った。その時「満州」という言葉を出すと「そういう国は無い。もともと中国人の土地を奪ったものだ」と言われたことから、中国残留孤児の話に関わるようになる。

 何て言うのかな、本当に農業に夢を見、食えるようになろう、理想に生きよう、と考えていただけなのに、帝国主義的侵略に加担するようになってしまった感じ、よくわかります。

 内原訓練所の生活も、きっといいものだったのだろうな、と思います。私もそういうところに行きたいなあ、と思ったこともあります。たしかかつてのベストセラー「次郎物語」の主人公、次郎もそんなところに行ったんじゃなかったかな。

 ほんま気をつけないといけないなあ。私だって時代の考え方みたいなものに縛られているところがあるだろうし。で、こういうことがあったことは忘れてはいけないよなあ、と思いました。

 まあ中で、イラク派兵と重ねて語ってはるところは、それはずいぶん違うんじゃないか、と思いましたけど。




posted by kingstone at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

母の定期通院につきそって来た

 今日は母の定期通院に付き添って来ました。いつもよりずいぶん早く呼ばれて喜んだら主治医のお医者様

「あれ?血液検査は?あっ、ごめんなさい。前回オーダー忘れていました。検査してから来て下さい」

 実は、前回の定期通院のおりにもらった次回(つまり今回)の予定にいつもはある血液検査が入っていませんでした。その場ですぐ確認しなかったこちらも悪いのですが、帰宅後すぐに病院に電話連絡し事態を説明してこれでいいのか確認をお願いしていたのです。するとその時「電話を受け付けた人」は「そのままでいいですよ」と回答していました。今から推測するに、この人、主治医の先生に確認していなかったと思われます。

 看護師さんが「申し訳ない」と何度も謝って下さったので、「いえいえ」とこちらも笑いながらお返事していました。でもこれは看護師さんにクレームつけても変わらないやろなあ、と思ってたから。

 で、これはシステムの問題だなあ、と思って、病院内の「受付」(あちこち)に、かなり怖い顔と奮然とした口調でクレームをつけました。受付にいた若い女性、かなり固い顔になってしまったな(笑)ごめんなさいね。まあちゃんとシステムを再考するように関連部署に話が行くようにと思ってね。まあ、どんなんかな。

 で、再度診察。結果は前回より良かったです。で、介護保険の認定の話をすると

「それはもうこちらからは書類を書いて送ったからね。(電子カルテにちゃんと記録されている)で、調査が来るからあんまり調子に乗って『なんでもできます』なんて言わないようにね」

とおっしゃるので、「介護保険サービスの認定調査員さんが来ました」の

「調査員「動きができなくて困っていることはありませんか?」
母「(にっこり笑って)ありません」

 思わずふき出してしまいました。確かに「現在困っていることは無い」
って言っても、現にお風呂の湯船に入れなくなったから申請しようと思ったわけですが。

 で、昔は活動的で外にもよく出ていた母が、だんだん外出しなくなり(質問されて考えたらこの1か月で通院4回。すべて私が付き添い)、家事も妻が交替し、活動範囲を狭めています。また移動は杖、危ない部分は手すり、必要な時には自助具(靴下をはく時など)、できないことは我々がする(握力が無いので回す蓋は開けられない)、ということがあってのうえでの「(困っていることは)ありません」なのですよね。

 まあ、私のほうで注釈をつけておきました。」

の話をすると

「あちゃあ(確か本当にこう発声しはったと思う)」

と声をあげられ

「そういうところで落とされたりすることが多いんですよ」

とのことでした。なんかその場にいる人みんなで笑ってしまいましたが。まあ落とされた場合は、「再申請」だったか「異議申し立て」だったかの手段があるそうです。

 しかし・・・こういうことってよくありますよね。自閉症の人にだって、スケジュールしたり、「見てわかるもの」で伝えたり、「見てわかるもの」その他で表現してもらい、選択してもらって、でニコニコ楽しく暮らしていると「障害が軽くていいわね」と言われたり、支援者は支援者でさぼっているように見られたり・・・強度高度障害から外れてお金が出るのが少なくなったり・・・

 で、声で指示しまくったり、体を張ったりして、本人さんを荒れさしたりしてる支援者さんは「頑張ってる」「苦労している」って賞賛されたり・・・

 ま、でも、ニコニコ楽しく暮らしている方がいいや。



posted by kingstone at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | お金・暮らし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1995年3月2日

1995年3月2日


○○           RE^3:ナイフは友達
(18) 95/03/02 20:35

 □□さん
 こんばんわ。

 この村でも百軒くらいは農家がありますので、いざとなれば100本の火炎放射機がずらりと並ぶ事に(^^;)なるのかなー。

 昔から慣れ親しんだ農機具ですので、何の抵抗もないのですが、その点はナイフも同じ様な事が言えますね。ことによるとナイフの方が農機具なんかよりも、人間の生活に自然に入り込んでいるかもしれません。

 専用のナイフって言うのが色々あるそうですが、私も静かに読書しながら「ブックナイフ」で本のページを切っていくって言うような生活をしてみたいなー。
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kingstone         副食がつくようになりました
(14) 95/03/02 22:06

 今日も某肢体不自由特別支援学校に泊まりです。

 今回は避難所のボランティアではなく、ある地域に「防災指令3号」というのが出ているための宿泊です。

 というわけで、評価の仕事をしたりしてます。

 さて、今日の臨時職員会で「給食に副食がつく」という話が発表されました。(あれれ、いつからだったかな?)今までパンと牛乳にジャム程度の給食で何とか副食をつけたい、という話がいろいろ出ていたのです。しかし市内の状況を見る時、許可が下りるのは無理ではないか、という予測がされていました。

 しかし管理職が「しばらくはお金もこちらで出すから副食をつける許可だけでもほしい」という覚悟でねばり強く打合せ(交渉という言葉を使ってはいけないらしい・・・・)を続けていたところ、思いもかけず許可が下りた、ということです。その「お金」も管理職が自腹を切るつもりだったらしい・・・みんなに言えばいいのに・・・いやはや頭が下がります。

 いやもちろん管理職だけがえらいのではなく、職員一同のの強い願いがあったからこそですが、それを受けとめる度量が管理職にあったということですな。また許可を出した教育委員会もえらい、と思います。

 結構みんな「他の学校ではそんな状況じゃないのだからがまんしなきゃ」というふうになりがちだったと思うのですが、「うちはできるんだからやろうよ」というのを認めてくれる流れがあるんだ、という気がします。
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kingstone        神戸地区障害児諸学校救援基金のお礼
(14) 95/03/02 22:05

下記のみなさんより基金を送って頂きました。
ありがとうございました。

習志野市教職員有志様
安曇養護学校高等部様
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○○            震災地
(18) 95/03/02 23:27

 □□さん、△△ さん、AAさん
 こんばんわ。皆々様、おせわになってます。

 まー、冗談めかして書いてしまいましたが、会社に水を搬入する道すがら、多くの方々が給水車を待って並んでられる光景も目撃しました。

 途中で道を教えていただいた方が
「その水をくれたら教えてやる。」
と、言われた時には返す言葉がなかったです。

「この水は、池の水を、農薬散布用のタンクに入れたものですから、飲めませんよ!」

と、申し上げても、なかなか信じて下さいませんでした。

 その時点では飲み水がなかったんですね。私には何もできませんでした。ことによると、本当の復旧の邪魔をしていたのかもしれません。



posted by kingstone at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 阪神・淡路大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1995年3月1日

1995年3月1日


○○            RE:農家の底力
(18) 95/03/01 00:26

 いやー、すごいっすねえ。>□□さん

 あぶないものいっぱい持ってるわ、400リッター水タンクをトラックに積んでくるわ、いざというときの農家の実力は侮れないものがある。食料だって自前で作ってるわけだし、非常事態には頼りになりますねえ。仲良くしましょう。(^^))))スリスリ
posted by kingstone at 06:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 阪神・淡路大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1995年2月28日

1995年2月28日


○○            RE:農家の底力
(18) 95/02/28 17:37

 □□さん、こんにちは。

>  翌朝、私は地元の消防団のヘルメットをかぶり、軽四輪
> トラックに搭載した満タンの400リッター水タンクを持
> 出社しておりました。

 恐れ入りますm(__)m

 もしかしたら、あの黄色いやつで、上に30cmぐらいの蓋がついたやつですか。そう言えば、震災後、実家(三木)の付近で「災害支援」とかいた軽トラにタンクを積んだ車をよく見かけました。

□□さんも、その一員でがんばってはったんですね(^^)

しかし、まさかそんなもんを持って来てくれるとは、会社の人も思わなかったでしょうね・・・

 関係無いですが農家の皆さんは、そんなものまで個人で持っていなければいけないとなると、やはり、農家の経費というのは大変なんですねぇ。
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△△           RE:農家の底力
(18) 95/02/28 20:48

  #8682 □□ さん こんにちは(^^)

  我が家も農家です。

》  翌朝、私は地元の消防団のヘルメットをかぶり、軽四輪
》 トラックに搭載した満タンの400リッター水タンクを持
》 出社しておりました。

  ふむふむ。

》 ません。でも(^^;)、まさかあんな物持って会社に
》 行くとは(^^;)、考えた事もなかったですね。

  消毒をするときには、あっという間に無くなるのにね。
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kingstone         神戸地区障害児諸学校救援基金へのお礼
(14) 95/02/28 20:14

 下記のみなさんより、救援基金を送って頂きました。
 たいへんありがとうございます。

府中朝日養護学校生徒会様
AA様
BB様
港養護学校PTA様

 基金の使い方ですが、諸学校の中でが全壊・半壊の幼児・児童・生徒・職員への援助と緊急に物資を購入したりする時の費用にしたいと考えています。現在そのために全壊・半壊の家を調査中です。というわけで、早急に各校に基金を配付したかったのですが、もう少しかかりそうです。すいません。

(そういう使い方だと「基金」とは呼ばない、という突っ込みを頂きました・・・いやまったくその通り。名前をどうしたらいいかわからなかったんです)
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kingstone         救援基金配付先の追加・再掲
(14) 95/02/28 20:14
#207で、「神戸地区障害児諸学校救援基金」の配付先を書きましたが、それに

兵庫県立のじぎく養護学校

を追加して、

(順不同)
神戸市立垂水養護学校
神戸市立友生養護学校
神戸市立青陽西養護学校
神戸市立青陽東養護学校
神戸市立青陽高等養護学校
神戸市立盲学校
兵庫県立神戸養護学校
兵庫県立神戸聾学校
兵庫県立盲学校
兵庫県立のじぎく養護学校

 とさせて頂く予定です。県立学校の方へはまた連絡が入ります。連絡が遅れるかもしれませんが、市立学校と同じ基準で配分させて頂ければと考えています。
posted by kingstone at 06:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 阪神・淡路大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小学校の卒業式への自閉症児の参加

 大昔の話です。
 
 特別支援学級にいた頃。


卒業式にて

 ○○さん、こんにちは。
 □□です。

 うちの長男△△も無事卒業しました。

> 「おねえたちは74名でこの位の時間か、BBたちは126名くらいだから
> もっと時間が要るなあ」とか
> 「式次第が子供らが見える所にないなあ」とか
> いらんことばっかり頭の中に浮かんでしまっていました。
 
 私も△△のクラスに自閉症の男の子がいるのでその子の様子ばかり気になって、3年後のAAの卒業式を疑似体験してしまいました。
 
 彼は卒業式の練習をひどく嫌がっていて、自分の席に座ることを拒み、ステージの前に座り込んでいたようなのですが、本番ではほとんど席を離れることもなく、まわりの様子を見て立ったり座ったりもできていました。

 ほとんど絶え間なく声を出していましたが、嫌そうな様子もなく途中一度だけ真ん中に出て行っただけでした。本番は練習とは違い、たくさんの人が所定の位置に座っていたので、自分の座るべき席は自分の席だけしかないと思ったのかな?

 それと彼は母の居る席をじっと見て時々「お母さん、さようなら」と言っていたので、母親に「席から離れたらお母さんは帰るよ」と言われていたのかもしれません。

 先生は彼が大声をあげたり、ズボンが下がりそうになると何か耳もとで言い聞かせていたようでした。視覚的な援助は全くなかったように思います。

 彼が立派に卒業式を務めあげたので、AAの時もたぶん「AA君は言葉で言えばわかります。」って言われるんだろうな。

> おねえに申し訳ない。
> 今日は1年生の頃の写真見て思い出に浸ろうっと。

 うちも大阪の学校で過ごしたのはたった10ヶ月だったので親子共々あんまり感動がなくって。
 でも、卒業式の時の△△の顔はなんか誇らしげでかわいかったです。

 AAは午前中レスパイトしてもらったのですが、午後はできないと断られ、私は謝恩会に出席できなかったのが、すごく残念でした。レスパイトサービスは長野より大阪の方が遅れていると知ってビックリです。←いまだ根に持っている。

 話はそれましたが、△△は4月から中学生、どんな中学生になるのか楽しみです。
 BB君は何年生になるのかな?AAは4年生です。

追記
 私だったらこのお子さんとの卒業式にどう取り組んだだろう。

 全体の式次第が前に貼ってあるのは当然。(これは通常校で一般的なことですよね)あと個人用の式次第を作る。(子スケジュールとかワークシステムとかいう言い方もできますね)

 イスには本人の名前か本人用の(いつも使っている)シンボルをつけるか、いずれにせよ本人に「これは僕のイスだ」とわかるようにする。

 彼は式の中の来賓の音声言語の挨拶とかわかっているんだろうか?1対1でつけるなら絵での翻訳を試みるかもしれない。それができない状況ならあっさりあきらめて「本人の好きな本」とかを持ち込む。

 通常校だと全体向けの絵などでの視覚支援は抵抗があるだろうからな。(でもそれやる手もあるのかなあ。某大学の入学式には「手話通訳」と「字幕スクリーン」があったしな。

 で、練習の時は流れを通し、途中で練習の巻き戻しみたいなのが始まったら(これがまたよくある)即退散するようにするなあ。本番は一筋の流れだからうまくいきやすいから、そこのところの成功体験ができればいいわけだし。練習の時に失敗体験を積む必要は無い。

 あっ、退散と言えば、実際に小学校の卒業式の本番で「しんどくなったら会場を離れ体育館の控え室で休憩できる」というふうに私はしました。本人に表現できるようにしてもらったと思います。で、本人が落ち着いたらまた式場に戻る。これでばっちり落ち着いて参加できました。カームダウンエリア(落ち着ける場所)の利用ですね。

大人の思いと本人の思いの違いがわかるためには本人に表現してもらうこと

 大昔の話です。
 
 特別支援学級にいた頃。


 Kingさん、こんにちは、○○です。

> 大人の考えと本人の思い・・・

 □□は、自分の想いが自分でわかっていて、それを出してくれるのが、いいところです。
 こういうところは、兄貴となんも変わりません。
 ただ、言葉で言わないだけです。

> お互いの見通し・・・

 □□自身が見通しを立ててくれることは、まだありませんから、□□の行動がこちらに見通しが立つように、□□に場面場面のスキルを教えていくとか行動を理解していくとか、そんなことが必要なんでしょうね。

追記
 自閉症(スペクトラム)の方とつきあう時は「目でみえる」表現方法、「目で見える見通し」(スケジュール)が必要になりますね。

保育園に連絡帳で伝えるがなかなか理解してもらえない

 大昔の話です。
 
 特別支援学級にいた頃。


 ○○さま、レス有難うございました。□□です。

 大変な状況の中でレスしていただき、申し訳なかったです。

> 先生には、連絡帳を通して、日常のあれこれをこまめに伝えるようにしています。
> そして、個人懇談をまめに持ってもらっています。
> そこでは、園の生活で出来たことや困っていること、
> 家での生活で、出来るようになったことやそのプロセス、
> その時点で困ってることや、改善策など、
> 忌憚なく、互いの立場で、お話できる場になってきました。
> うちの場合、一才児からお世話になっているので、
> 一緒に育てているという意識を持ってくださっているように感じます。
> ただ、自閉症の障害特性からのアプローチについては、
> 前にも書いた通りの反応でした。
 
 私も、昨年の12月から連絡帳をつくり、園での様子を中心に、家庭での取り組みや、障害特性の説明を部分的に書いたりしています(うちの子の状態にそって)。

 しかし、先生も娘は具体的で短いことばしか理解できないとは思ってもらえなくて、具体的で短いことばは理解しやすいと思っておられたりします。

 例えば、「順番を待つ」は「○○くんがします」といえば理解でき、「皆そろってから食べます」は「いただきますをします」といえば理解できます。先生方も生活の中で、理解しているものの、具体的なことばの次は抽象的なことばで理解できるようにと考えておられるようです。

 全般的に遅い子への対応かなあと感じます。自閉症の障害特性を理解していただかないと、話が前に進まない気もします。連絡帳で、虫食い状態で障害特性を書いても、虫食いは全体像を伝えることにはならないみたいです。書き方(伝え方)の問題かもしれませんが…。

> やはり、子供自身の姿を通して伝えていくのが、
> 一番手っ取り早かったのかなと思ったりします。
> 親からの要求でも、お願いでもなく、
> 本人支援、という視点から先生方とコミュニケーションをとられるといいのでは。

 まだまだ、子どもが生活しやすい環境になるよう、家でも園でも変えていきたいです。

 いろいろと有難うございました。

追記
 連絡帳から始まるのですが、連絡帳だけでうまくいくとも限りませんね。朝の児童・生徒が登園・登校してからパッパと読むわけですから。まあでも簡をむねとしつつ、伝えたいことを伝え、聞きたいことを聞くってのは必要ですね。


2月18日(金曜日)

 おはようございます。

 何か、早朝覚醒してしまいました。

 今日返さなくてはならないのは
「満州楽土に消ゆ」
「退屈な読書」

ラベル:挨拶 天気
posted by kingstone at 05:02| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする