昨日書いた「
アスペルガー症候群のお子さんが入学に際して通常学級で加配もつけてもらえない話」についてのスピンアウト。
「特別支援学級で在籍数は増えるのに人手もお金も増えない」しかも保護者からは「うちの子の指導にかかる時間を少なくしてもらっては困る」みたいな要求が出てくる・・・これは日本全国で起こっている事態だと思います。
その話に直接いく前にいくつかエピソードを語らせて下さい。
肢体不自由特別支援学校小学部で。文化祭。舞台の上での演し物。手足の動かない子どもを抱え、先生が音楽に合わせて踊る。子どもはにこにこ、観客もにこにこ。
もちろん、それしかできない時もあります。しかしあの子は本当に抱えて振り回されるしかないお子さんだったんだろうか?
肢体不自由特別支援学校で。子どもが紙粘土で作品を作りました。ほとんどは、まあ先生が抱えて、手を持ち、手を年度に押し付け作った作品。別にそれはそれでいいと思います。しかし放課後、愛情豊かで仕事熱心な先生が、作品を一生懸命作り直していました。まあ作品を作る、というのもお子さんに何か感触を味わってもらおう、という意味もあり、またそれでできた作品でもいいんじゃないか、と私は思っていたのですが・・・作り直すところまでは全然考えなかった。
「俺たち、間違ってないよな」 特別支援学級の相棒に 上のエントリのことをもう少し詳しく書いてみます。(どこかに書いた、と思ったのですが、自分で検索しても見つからないので)これ、実は「人権教育」の全校あげての学校公開授業でのもの。それぞれの学年で「人権」についての授業が取り組まれ、それを他の学校の人が見に行きます。
私は、その学校の特別支援学級の子が参加するという4年生の授業を見に行きました。靴を脱いで上がる集会室のようなところで4年生全員が集まっています。たぶん3クラス、150人か4クラス170人くらい。前の小さな舞台の上で少人数のグループが自分たちの調べたことを発表していきます。
後ろの方にそれらしい子が座っていました。まあたぶん自閉症のお子さん。その側に大人の女の人が座っていました。(しかし、その女の人が教師だとは最初わからなかった。着ているものがオシャレ(っていうのも変だけど、フリルのついたシャツにスカート。公開授業だからオシャレにしている、ということかもしれないけど、すごく違和感があった。)だったり、また後で外へ出る時、履物がミュールだったりしたので)女の人の表情は険しく固いものでした。何と言うか、最初から眉根にシワを寄せていた。それやこれやで私は「ひょっとしてお母さんがついているのか?」と思っていました。
そのうち、その子は動き出そうとしました。それを最初はその女の人が軽く手で押さえる。もっと動こうとする。強く押さえつける。子どもは仰向けに寝転ぶ。おおいかぶさって押さえる。怖い顔をして怒鳴る。しかし子どもが周囲を蹴りまくる。そこで女の人は耐え切れなくなって子どもを外に誘導しました。
私は、黙ってついて行きました。子どもは水飲み場で水を飲み、特別支援教室らしい所へ入って行きました。その途中でも女の人を蹴っていたと思います。
特別支援教室らしき所で、女の人は少し誰か大人とやりとりしていたと思います。「困ったことや」みたいな会話だったと思います。
後で、この女の人は、その学校の先生だったことがわかります。
これなど、そのお子さんに音声でもカードでも何でもいいから「特別支援教室へ戻りたい」の表現を教えてあげれば、「たいへんな目」をせずとも、またたぶん人手をかけなくても、楽々生活できたことだと思われます。
何かねえ、無駄なところに人手をかけてないかなあ。最後の例は人手をかけることで余計に問題をこじらせている。
「うちの子の指導にかかる時間を少なくしてもらっては困る」という保護者の方の要求について。
これは保護者はどんなことを想定しておられるのかな。指導にかかる時間・・・
指導について教師が頭を使うことは大事です。知的障害特別支援学校時代、小学校の特別支援学級にいて「より手がかかる」お子さんが在籍することになって、「お宅のお子さんはみておれない」と言われて転校してきたケース、交流と称して通常学級に行く時間が増え、様々な問題が起こり(もちろん本人に非常につらい目をかけたという問題)転校して来た子、など複数のケースを見ました。
実際問題として、以前の特別支援学級で、適切な指導がされていたとは思えません。かといって知的障害特別支援学校で適切な指導がされた、とも思えません。先に上げた後者の子はたまたま私の学年で担当したので、いろいろな点を改善していきましたが。
ある一人の子にかける時間とか人手の問題なのだろうか?
いずれの学校でも、何か本人のできることとは関係なく、ものすごく高い課題をさせようとしていないだろうか。
保護者にしても、教師にしても「そのお子さんが、今できることは何か」「好きなことは何か」を考え、それを組み合わせていくことで、できることを考えるのが大事じゃないかな。で「できないことは、できない」ですっぱりあきらめる。
ただし「すっぱりあきらめる」ったってこんな話もある。
個別支援計画(IEP)についての大昔の発言 これはたぶん(たぶん、としか言えませんが)教師集団は「何か楽しい人間関係作りが大事なんだ。そうすればこの子はいろんなことができるようになる。だから『掃除』とかの活動をさせてはいけない」と考えている可能性が高かったです。(今はどうかわかりません)
「楽しい人間関係が大事」というのはもっとも。しかし「掃除」とかの活動ができないかどうかはそれとはまったく別の問題です。それを「すっぱりあきらめ」られたら困る。また、実のところ、そのお子さんは教師が何を伝えようとしているのかわからずとまどい、よき人間関係もできないままきているかもしれない。
「人間関係ができた」→「掃除ができた」
じゃなく
「掃除ができた」→「自分でやった、と思えた」→「褒められた」→「人間関係ができた」
ってこともよくあります。
もちろんだからって最初の1回目はどうかわかりませんが、教師が腕を取り子どもに雑巾を持たせて拭き掃除を続ける、なんてことは人手もかかり、しかも「子どもにとって良くない」ことであり、即刻考えを改めた方がいいです。
また「叱ってやらせる」とか、「指差しで指示しっぱなしでやらせる」っちゅうもんでもない。それも人手がかかるしね。
また特別支援学級の子に、通常学級の子が指示してやらせる、ってもんでもない。そんな風景を「素晴らしい特別支援教育」「通常校ならではの実践」として大きな大会で発表しておられた方がいましたが、それは結構恥ずかしいと思う。「指示が無いと動けない子」を作っているだけなのだから。また他人の指示が無いと動けない「おどおどした子」を作ってしまいます。
どうしたら「ひとりでできる」か、を考えて取り組んでみなきゃ。で、そうすると「掃除の時間いっぱい」活動することができず、早々に活動が終わってしまうこともあります。私なんか、雑巾がけで言えばある子だと「机を雑巾でさっとひとふき」で「やったね。はいおしまい」ってことだってありました。その日はそれだけでOK。で、それができたら次はどうしようかな?みたいに考えていく。
上は重度(ごめんなさい)の知的障害のあるお子さんの例ですが、肢体不自由のお子さんで、動く部分が少ない、というのだったら掃除の時間に掃除機のスイッチを入れる、切る、だけでもいいかもしれない。それで周囲が「ありがとう」と言える。
やっぱり「人手をかけず、ひとりでできる」ことを考えることが大切やな。
肢体不自由であろうと、知的障害であろうと、その人が安定して過ごせる条件は
・ひとりでできる趣味(仕事)がある。
・周囲の人に感謝されることがある。
の2つだといいます。人手をかけて「何かに参加しているように見え」ても、実はそれは本人の満足になっていないこともあるのじゃないかな。
「ひとりでできる」ことを考える上で「自立課題学習」は私にとっておおいに参考になりました。私のブログ内を「自立課題学習」「自立課題」「課題学習」「NewSkill」などで検索して頂くといっぱいエントリが出てきます。またある程度まとめたものは
kingstone本やドラマや支援グッズを紹介するの方で「自立課題学習」でブログ内検索して頂くといろいろ出てきます。
正直、準備は今までやったことのない人は最初たいへんに感じるかもしれません。しかし考えてみると通常学級だってあらかじめの教材研究・教材準備の苦労は一緒です。そして、「自立課題学習」の場合は、やってる最中は結構ぼーーっとしてることができます。つまり「子どものいる時間」は人手をあまりかけなくてすむ。
と言っても、知的障害特別支援学校でも特別支援学級でも1日ずっと「自立課題学習」っぽいことで過ごしていたわけではありません。子どもによってはその日の「自立課題学習」は5分を3回で終わっちゃった、ということもあります。
その他の時間は何をしていたか。好きなビデオを見ることを要求してビデオを見る。好きなパソコンゲームを要求してパソコンゲーム(といっても学習ソフトとかキッドピクスでお絵かきとか)、カームダウンペースでくつろぐ、等等。子どもによってはインターネットで好きなテーマを調べてまとめる、なんてやってた子もいます。
「好きなビデオ」を要求して見る、というのをある地域の特別支援教育担当教師の研修会で報告したら「そんなことやっていいのか」と驚かれていました。なんか「学校でする授業」と思えないそうです。私は「要求」の大切な授業と思ってましたが。
あと「舞台とか大勢の前で演じる」というのを否定しているわけではありません。結構その手のこともしました。私は適当ですが、このブログにちょくちょくコメントを下さるもずらいとさんなんかだと「肢体不自由児・者」の、少ない動きを使ってバンド演奏をする、かつ聴衆も楽しめる(っていうか盛り上がる)ことをされると思います。ひょっとしたら「知的障害児・者」ともかな?
やりようによって、いろんなことができるんですよね。
準備はそれなりに必要です。自閉症スペクトラム障害の人だったら「見てわかる」もの、肢体不自由の人だったら様々な装置も必要かもしれません。(なお、肢体不自由の人のための装置、特別支援学級にはそんなもん無い、という場合、最近だったら肢体不自由特別支援学校に行ったら、使ってない物が転がっているかもしれません。最近は結構豊富にあると言うし、特別支援学校はセンター的立場にあるのだし、相談にはのってくれるでしょう。結構学校間の物の貸し借りはできるもんです)でも今「自閉症スペクトラム」の人と「肢体不自由」の人を分けて書いたけど、肢体不自由の人に使い安い装置だって「見てわかる」とかとにかく「わかってできる」物なんだよなあ、とつくづく感じました。そういう意味では同じこと。
で、繰り返しになりますが、できないもんはできないもんですっぱりあきらめる。
よく思うのは自閉症スペクトラム障害の人の場合、「できない」と見えることがある場合、「わからない」からできない場合と「嫌だから」できない場合があります。後者の感覚的に耐えられない場合でも「いやだ」を表現できなくて「できない」としか見えない場合もある。例えば「人のいっぱいいる教室に入れない」とか。そこを無理して押して入っても苦痛なだけ、と言う場合もあるわけです。後であの手この手は考えるとして、じゃあとりあえず今は「あきらめ」ておこう、みたいな割り切りも必要です。
それが他の人からは「のんべんだらり」と暮らしているように見えるかもしれない。でも、それって大切なことなんだよ、という感覚は持っておきたい。
教師が苦しみしんどい目をし(怒鳴る、叱る、引っ張る、押す、押さえる・・・時には叩くなんかも。そんなことをするの苦しいでしょう?苦しくない?)、子どもが苦しみ、問題行動が出て保護者が苦しむ・・・それが素晴らしい教育か??
子どもが楽、保護者が楽、教師が楽、が一番いい。(準備はいるけどね)
あと、例えば「ひとり離れてある所へ行く」というのが好きな子がいたりする。そういう時に教師は大丈夫と思っていても、ひとりでウロウロするのを周囲の大人が見て「教師がほったらかしている」と見られることがある。私の担当したお子さんで、保護者は納得されていたけど保護者の友人が「この頃、あそこの教師、あんたんとこの子、ほったらかしてる」と言いに行ったことがありました。そんな時に、私は社会福祉協議会とか大学に頼んでボランティアさんに来ていただき、「何もしなくていいから少し離れて見ていて下さい」とお願いしました。この時のボランティアさんには何もお金は払ってませんでした。
でも、ほんとこのお子さんの場合、大丈夫だったんですけどね。
あと人手のことで言うと、自閉症スペクトラムで自分で移動できるお子さんに対して移動に児童を使うのはやめて欲しい。「◯◯君、次は音楽室だよ」と子どもが迎えに来る、というやつ。一人で移動できるあの手この手を考えるか、教師が配置を考えて大人がすべきことだと思います。肢体不自由で車いすで介助がいる、という場合はどうだろう。これもできれば電動車イスで自力でできた方がいいとは思いますが。電動車イスでなくて、自力走行できないお子さんの場合には、あり得るかな?
それから授業には関係ないですが、登下校で集団登下校で他の子どもを頼るのもやめて欲しいことですね。他の児童に頼むことでは無い。もし、登下校に人手が必要ならガイドヘルパーをお願いすればいいことです。役所の窓口で「登下校には使えません」と言われる場合があるかもしれませんが、これは各地にある障害支援に関するNPOなどにお願いすれば申請の仕方や、申し込んだらいいところを教えてくれると思います。
結局、卒業後、どんな暮らしを作って行き、どんな力をつけたらいいのかな、ということを考えることが大切だと思います。