ハルヤンネさんが「
「私たちの取り組みはTEACCHを参考にした取り組みとすら言えない」に対して2」にコメントをつけて下さいました。このエントリのみに対してではなく、私の今までのエントリを通じての感慨と思われます。
で、コメントに私もレスを書きましたが、「反論」とか「議論」とか「説得」ではなく、いち自閉症の人に関わったヲタクとして、記憶を書いておきたいな、と思って別エントリにします。私の趣味的な話です。まあ自閉症スペクトラムの人で、場合によっては趣味の話が止まらなくなる、あれに似てるかなあ、ということで。
ハルヤンネさんからのコメントの一部。
「特性を学ぶにはTEACCHから入るのがいいでしょうと今でも話していますが、自分は、ある時点から、TEACCHからは、離れていきました
おめめどうの四つの柱である
1.視覚的、具体的、肯定的支援
2、選択活動
3、みえるコム
4、杖の役割
の、1の部分は、私は、(日本の)TEACCHから学びましたが、あとの2、3、4は、当時は、TEACCHでは語られていませんでした(今は、どうか、わからないけれど)」
この部分について私の書いたレス。
「
|2、選択活動
|3、みえるコム
|4、杖の役割
一応、TEACCHにも入ってるとは思うんですけどね。現場の人がやるかどうかは別として。」
もうちょっと詳しく書いてみたいと思います。
1.視覚的、具体的、肯定的支援 視覚的ということになればTEACCHは「自閉症の文化」ということを早くから言い、自閉症の特性(3つ組や、感覚過敏)から視覚支援・具体的な物や、具体的概念でやりとりする・肯定的に関わる、ということを私は学びました。簡潔に視覚的・具体的・肯定的とまとめて下さったのはハルヤンネさんですけど。
2、選択活動 これはTEACCHの2日間や5日間のセミナーでも、少なくとも私の参加したものには、かならず「おやつの時間」がありました。「
お菓子でコミュニケーション」ですね。ですから、そういうところで学んだ人は選択活動の大事さ、しかも自発的表現によるものの大事さを学んではるはずなのです。ただし、言葉で「選択活動」とは強調しなかったとは思います。
ハルヤンネさんも含め、仲間うちで「何故だろう」と考えたもんです。当時の結論は、アメリカでは「本人に選択してもらう」があまりにも当たり前で、講習では言及することすら無かった、というあたりじゃないかなあ、との結論でした。
これは私が子どもの頃、親戚がカナダから来た時、(彼は2世で日本語がすこし怪しかったです)日本に来てびっくりしたのは、レストランでメニューが選択できないことだ、と言っていたことからも類推できます。まあ、これも今はどうかわかりませんが。
で、また最近ではsyunさんが「定食を選ぶのも選択の一つだ」と言ってはるのも含蓄深い。
TEACCHに関しては辛口のことが多いもずらいとさんが「自閉症の人には選択活動が大切」とかなり昔から言っておられたのも慧眼だと思います。(まあ、もずらいとさんは普通の学校文化の人とは言えない、という言い方もできるでしょうが。いい意味でね)
で、私なんかは学校の中でどんな選択活動ができるかあれこれ考えたものですが、セミナーを受けた教師の中には「おやつ」の場面のみのことだと思ってしまって、他の場面に広げることに思い至れなかった人も多かったかもしれません。
なんせねえ。当時TEACCHのセミナーから帰ってきてA君の自発的な表現コミュニケーションを調べるためにコミュニケーションサンプルをとろうと試みました。A君は少しは音声言語の単語をしゃべっていました。コミュニケーションサンプルの場合、2時間あるいは50個の「自発的」「表現」を記録します。しかし学校で取ろうとしたら、たった1つも無い!そしてそれでも学校生活は回っている!本来コミュニケーションサンプルには取らない「こちらから尋ねて、本人が答える」もなかったと思います。
教師からの指示にそって動かすばかりで、本人からの「選択」や「表現してもらうこと」を学校はぜんぜん望んでいない。それで授業は、生活は成立するのか???
まあ、そんなこんなでいろいろな試みをするようになるわけですが。
あとかなり昔のノースカロライナでの私の好きなエピソード。「
コメント「TEACCHと異文化」について」
火災報知器の鳴った緊急の場合でも選択してもらった、という話です。
ってわけでTEACCHの中に「選択活動」が無かったわけじゃない、という話。
3、みえるコム これについては上でも書いたように、日本におけるTEACCHの講習でも「見てわかるもので理解する」「見てわかるもので表現する」はあったと思います。もちろん「おめめどうの商品」は私が実践を止め、学ぶことを止めてから出てきたものが多く、また多くの現在TEACCHについて学んでいる人も知らないことは多いかと思います。
それと、TEACCHに関する本を読んだり、講習を受けた先生でも、いざ現場に出た時に「書いて伝えては下さらない」というケースは多かったと思います。
「
なかなか書いては下さらない」のエピソード。
4、杖の役割 ええっと、これは「できるところを支援する」ということかな。そして杖は決して杖を握っている人に説教しようとはしないし。単に道具として、環境としてあるだけ。
これはTEACCHではボトムアップで能力を伸ばしてから何かをできるようにしよう、という考えではなく、トップダウンで「今できること」を組み合わせてできるようにしよう、という考えだ、というのは昔から聞いてきたと思います。で、できないこと、嫌なことは、それはそれでいいじゃないか、という考え方だと思って来ましたが。例えば「
教師のためのTEACCHプログラム」の中で転校して来た自閉症のお子さんにまっさきに覚えてもらうのが「僕はこの授業から出て行きますカード(GO AWAY カード)」の使い方だ、というところからもわかると思うのですが。
もちろん「芽生え反応(できかけていること)」も大事にしますけど。
あと人権とかについても髭のジャックのエピソード
構造化のパワーに気をつけろとか
よほど危険が迫っている時以外は、腕をつかんだり、体を押さえつけたりしないとか、いうところからも私は人権について学ばされました。
まあねえ、しかし2日間セミナーを受けても
TEACCHの2日間セミナーのエピソードに出てくるように、実践せずわけのわからんことを言ってとくとくとしているような教師もいたし・・・
「内地留学でTEACCHも勉強しました」と言ってて生徒の手足を複数の教師で掴んでプールに投げ込んだ教師もいたし、TEACCHを勉強したと言うってだけでは信用できない場合も多々ありましたが。
ってわけで、TEACCHとおめめどうの考え方が違うものとは私には思えないわけです。ただしおめめどうが「
お子さんが自閉症と診断された方へのメール」にも書いたとおり「お子さんをまん中におく」が徹底している、というのはあるなあ。
以上ヲタクのひとりごとでした。