昨日は文部科学省で特別支援教育の在り方に関する特別委員会(中教審)があったそうです。
適切な就学相談、指導についてやインクルーシブ教育システムについての自由討論というような話題であったとか。
で、Twitterで乙武洋匡さん(この会議の委員。この3月までは小学校で教師をされていた)といろいろな方がこの会議のあれこれ「特別支援教育にはお金が必要」という点で一致されていたようです。(もちろんお金「だけ」ではなく様々なものが挙げられていました)
「特別支援教育。理念はわかるし、現場もそれをめざしたい。しかし、人的資源、数がたらんと思うんです。新しい事するには人、金がいります。」
乙武「そのあたりも、たっぷり語ってきました!」
「援教育を充実させる為には、予算が必要です。地方財源に左右されることなく、必要な所に必要な予算を付けて欲しいものですが・・・」
乙武「今日の会議でも、そのことが話題に上りました。やはり、最後はそこ、なんですよね…。」
で、いらんことしいの私はつい議論に入っていってしまいました。
kingstone「う〜ん・・・もちろんお金は大事なのですが、どうもそうでもないような場面もよく見ます。特別支援教育に「人手(人件費)」が必要とのご意見は多いのですが、人手を増やしても必要な知識・思想・技術が無い場合は無意味かなあと・・・」
その後、少し議論が続きました。
「お金とは、人件費や施設整備費だけを指している訳ではないんですよ!特別支援教育には専門的な知識が必要です。知的・情緒・肢体不自由児と全く違うし、同じ自閉症でも様々なタイプがあり、その子に応じたフォローが必要で、そのための教員教育や教材の整備も重要です。」
kingstone「よくわかります。」
kingstone「で、今のお金の範囲でも相当なことができそうな気がしましてね。それをまずやんなきゃなあ・・・と。」
「特別支援教育に携わっておられたんですね!」
kingstone「昔ですが。」
「昔であっても、そういう現場を知った方が、特別支援教育についてどんどん意見してください!一人で8人(だったかな?)も見れる訳ないだろうとか! 」
kingstone「でしたっけ。9人かな。1人はきつい。3人で20人、うまくやってはったとこは知ってますけど。」
実際「1人」というのは融通がきかなくてたいへんなんです。2人以上、複数いれば、その時々の配置をあれこれ考えることができる。あと
特別支援学級でボランティアさんをどう集めたか特別支援教育にはすごくお金がかかるのか?あたりも関係して来るかな。
kingstone「でね、「1対2じゃないと」「いや1対1でないと」とおっしゃる現場もよくあって、実は全然そんなことなかったり・・・そういうのを見てますので特に専門家と言われる方が「お金!お金!」と言われると懐疑的になってしまって・・・」
専門家と書いてますが、あと、教師が「もっと人手を」「1対1で」とかいう場合も多いですね。でも私はそれには非常に懐疑的です。いや別に増やしてもいいんですが、「出せるお金が決まっている」なら現職の方の給与を下げて新しい人を迎え入れることも必要かもしれない。ワークシェアリングみたいな考え方ですね。現職の給与をそのままにしておいて「お金を出せ、出せ」って言うのはそら現職の人や組合的には「正しく」「カッコいい」ことなのかもしれませんが。
で、ほんと、人手を増やすのはいいけど、それをどこにどう持っていくか、という問題もある。少なくとも、ずっと手をつなぎっぱなしとか、指示しっぱなしでいいわけない。
このあたりの私の思いは
ある施設の職員と利用者の数と特別支援学校の教師と生徒の数同僚が自立課題学習を1対4でできた話あたりの事実に基づいています。
「1対1である必要は、必ずしもないと思います。専門家がお金に執着するのは、結局、特別支援教育と言うところが、閉鎖的な環境だからではないでしょうか?」
Twitterの140字ではお答えするのがつらいかなあ、と思ってエントリにしてみました。
あと現状のお金の額で財源を持って来るとしたら、特別支援教育担当教師の給与割り増しが続いているのなら、それをやめちゃえばすぐにでも使える財源ができます。こう書くと「特別支援教育には専門の知識が必要でそれだけの研修を受け意欲のある人に来てもらわなければいけないのだ」というご意見もあろうかとは思いますが、通常学級も「専門の知識が必要でそれだけの研修を受け意欲のある人」が必要なのですね。同じなのです。給与に差をつける必要はまったくありません。
それから「特別支援教育に関わる資格の必要性」についてですが、まああったほうがいいとは思うのですね。現在、確かなデータは持ってませんが、特別支援学校勤務の方のお話では勤務している教師のうちの7割は持っている、とのことです。
すごいですね。
ただ大昔(決して今ではありません)、何の資格も無い私が資格のある方にいろいろお教えしていました。これも研修方法とかにも問題はありそうです。
昨日、たまたま、別の方(自閉症の人に関わる教師や施設職員に教え、また地域でシステムを作ろうとしている立ち場の方)がTwitterで
「研修は座学ばかりで甘いのではないか。現場で厳しく教える必要があるのではないか」
とつぶやいておられたのに、またまたいらん絡みで
kingstone「それは『優しい』か『易しい』ことでは。座学だけで学ぶのは『厳しく』『むつかしい』ことだと思いますから」
と言ってしまいましたが、これは相手の方に意味不明だったかもしれません。
どのような研修が必要かみたいなことを考えていたのですが。
特別支援教育の世界が閉鎖的かどうかはわかりませんが、特別支援教育に限らず、教育界は福祉の世界に比べて外の情報を得る、変化していく、というのが難しかったような気がします。「結果」の意味がはっきりせず、人手があり、そしてお金がそこそこ出、そこに安住していた、ってことが大きいかな。
あとユーザー(利用者)が直接は子どもだというのもあったかもしれない。福祉の世界は比較的ダイレクトにユーザーのニーズが伝わるけれども、子ども相手だと、子ども自身のニーズが伝わりにくいし、保護者のニーズってことにもなりやすいし。
最初のほうで知識・思想・技術と書きました。普段、私は「知識・技術」と書くことが多いのだけれど、このツィートをした時、やはり「思想」ってのも大事かなと思いました。「思想」と言うと引かれてしまうこともあるのですが、以下のようなことを思い出していました。
大昔の大昔、肢体不自由特別支援学校にいた頃。地域の小学校に子どもを連れて交流に行きました。その時、小学校の教頭先生から「通常学級の邪魔になる。来るな」と言われました。もちろん日時は打ち合わせしていたのですが。
特別支援学校に帰って愚痴ったら、ベテランの先輩から「それはお前が悪い。相手の都合をよく考えて日程を組まないからだ」と叱られました。
しかし、大昔に知的障害特別支援学校に異動し、1〜2年もした頃。どこの小学校に連絡を取っても相手校の校長先生などが「本来、うちの学校にいるべきお子さんです。いつでも来て下さって結構です」とおっしゃるようになりました。
これは管理職研修がうまくいって「知識」が身に付いたから、という言い方もできるかもしれませんが、社会的にもノーマライゼーション(地域で普通に暮らす)の思想が浸透してきたからでもあるでしょう。
思想というのはそういう力になるものだと思います。
今後は、一人ひとりの子どもの人権を大切にしよう、みたいな思想が大きくなっていって欲しいなあ、と思います。
TEACCHはある意味思想である(祈りもあるかも?)