図書館から借りて来ました。
寝ながら学べる構造主義 (文春新書)/内田 樹

¥725
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内田さんはあとがきにこう書いています。
「落語の『千早ふる』では、『横丁のご隠居』が熊さん相手に在原業平の古歌の意を説いて、なかなか味のある解釈をします。私もご隠居の驥尾に伏して、『ま、なんだな、この』というような前振りをしながら、構造主義者たちの滋味深き知見を『横丁のみなさん』に説き聞かせてみようと思い立ちました。そうやって書いたのが本書です。」
確かに、意図はしっかり実現されているようです。それだけにご隠居の話同様、「おいおいそれは違うんちゃう」みたいなところもいっぱいありますが。これは内田さんのせいなのか、引用された思想家の元ネタがそうだったのか、よくわかんないところがありますが。
ま、文系の学問って、「いかに面白いことが言えるか」の勝負であって、「正しさ」ってのはあんまり関係ないことじゃないかと思わなくもありません。
構造主義ってのは、カッコ良さそうな言葉だったから、若い頃2冊くらい入門書を読んだかな。
覚えていることは「今目の前にしているたくさんの現象とか言葉は、その上(下?)の構造に決められている」みたいなところかな。
著者によると構造主義の先達には大きく3人いて、マルクスとフロイトとニーチェだって。
確かにマルクスは「下部構造が丈夫構造を決定する(?だっけか)」みたいなことを言ってた。経済的(階級的?)立場が思想を決定するみたいな。
フロイトは精神分析を言い出したけど、これも無意識が意識の部分を決めてく、みたいなことを言ったから構造主義の先駆なのか?
ニーチェは、古典文献学者として、過去の文献を読むに際して、「いまの自分」の持っている情報や知識ををいったん「カッコに入れ」てないといけない、という心構えを要求したとか。なるほど。しかし、なんでそれが構造主義に関係してくるんだ?
しかし、ここで紹介されているニーチェは友達になりたくないタイプだなあ。超人とか言い出したり。
内田さんが技芸の伝承について書いているところは面白い。
「技芸の伝承に際しては、『師を見るな、師が見ているものを見よ』といいうことが言われます。弟子が『師を見ている』限り、弟子の視座は『いまの自分』の位置を動きません。『いまの自分』を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。)
それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、『師の視点』、『師の欲望』、『師の感動』に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて『実現しようとしていた当のもの』をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心象を受け渡せたなら、『いまの自分』から見てどれほど異他的なものであろうと、『原初の経験』は汚されることなく時代を生き抜くはずです。」
こういう物言い、好きだなあ。そういや内田さんは合気道の稽古もかなりしてはるとか。
で、ソシュールって言語学者が「構造主義の父(と言われている)」だそう。
何でだ?「物に名前がある」のではなく「概念があるから名前ができる」みたいなことか?
羊はフランス語で「ムートン」で生きてるのも食肉になったのも言うが英語では「シープ」と「マトン」と別れる、みたいな。あと「肩が凝るのは日本人だけ」みたいな。
でもって構造主義四銃志の一人目がフーコー。
「監獄の誕生」「狂気の歴史」「知の考古学」とかを書いた人。
しかし
「近代以前においては、狂人が『人間的秩序』の内部に、その正当な構成員として受容されていた事情は本邦でも変わりません」
と内田さんも書かれているけれど、本当だろうか?障害者についてもいろんな人が、そう言われることがあるけれど。これって単に「昔は良かった」みたいなことなんじゃなかろうか。それなりに昔だってそれぞれ苦労してはったのじゃないかと思う。
このフーコーのところの一番最初に内田さんが
「クリスマス時季に学生たちを我が家に集めたとき、私が編集したクリスマス・ソングのカセットをBGMにかけました。」
と書いてあって、私の頭の中にはむさくるしい男子大学生がいっぱい集まっている映像が浮かびました。しかし・・・内田さんて女子大の教授じゃん!!女子大生を集めてるんだ・・・
四銃士の二人目がバルト。バルトの仕事をまとめて言うと「記号学」
この言葉もはやったなあ・・・
トイレの「男の絵」は「象徴(シンボル)」で「紳士用」という文字は「記号」だって。シンボルの方はたぶんつながりがわかりやすいけど、「記号」の方は「ある社会集団が制度的に取り決めた『しるしと意味の組み合わせ』」だから「記号」のほうがちょっと難しくなるのか?自閉症の人に文字よりもまず絵の方がわかりやすいことが多いように・・・ほんとか??
でバルトは「ラング(国語みたいなもん)」と「スティル(個人的な好みの文体みたいなもん)」と「エクリチュール(集団的に選択され、実践される『好み』)なんてことを言い出した。なるほど、そっちからの構造に規定されるってわけね。
で、バルトは日本で人気があるのだけど、それはバルトが日本文化が好きでよく言及してるからだって。この本の中には俳句について書かれた文があります。
四銃士の三人目がレヴィ=ストロース。(この人は最近亡くなり、ジーンズのリーバイスさんの親戚だ、と話題になってました)
「悲しき熱帯」「野生の思考」を書いた人。人類学者。ジャン=ポール・サルトルを一刀両断にした人として有名なんだとか。
「『サルトルが世界と人間に向けているまなざしは、「閉じられた社会」とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。』」
我こそは世界のみんなの上(メタ)から思考している、と思っていても結局その文化のいろんなものに縛られているんだよ、ということかな。でもって、文化ってのは世界のあちこち(一枚岩と見えるものの中だって)複数ある。
四銃士の四人目がラカン。この人は名前は聞いたことがあるけど全然知りませんでした。精神分析家?
その流れのもととしてフロイトにも言及されています。
「『患者が、探し求めていたものの代わりに思い出したもの自体、症状と同じようにして生まれたのです。すなわち、その思いつきは抑圧されていたものの、人工的で、一時的な新しい代理形成物であり、抵抗の影響で歪曲されることが大きければ、大きいだけ、抑圧されていたものと異なるのです。』(『精神分析について』)
フロイト自身が「偽りの記憶」について語ってたんや!
「フロイトのヒステリー患者たちが語った過去の性的トラウマのいくぶんかは偽りの記憶でした。しかし『偽りの記憶』を思い出すことで症状が消滅すれば、分析は成功なのです。分析治療について、ラカンもフロイトのこの知見を支持します。」
症状というか、私は「困難」と呼びますけど。で、逆に言うと、「困難」が軽減(なかなか消滅とはいかないだろうから)しないのなら無意味だと私は思います。
「分析家は分析が終わると、必ずそのたびに被分析者に治療費を請求しなければならない、というのが精神分析のたいせつなルールです。決して無料で治療してはならないというのは大原則です。ラカンの『短時間セッション』は場合によると握手だけで終わることがありましたが、そのときでもラカンは必ず満額の料金を受領しましたし、料金を支払えなかった被分析者に対しては平手打ちを食わせることためらいませんでした。」
って・・・お金を払うことの大切さはわかるけど・・・無銭飲食した人を店長さんが平手打ちを食わせるって・・・警察に突き出す、ならわかるけど。
あとがきの内田さんのまとめがわかりやすいかも。
「レヴィ=ストロースは要するに『みんな仲良くしようね』と言っており、バルトは『ことばづかいで人は決まる』と言っており、ラカンは『大人になれよ』と言っており、フーコーは『私はバカが嫌いだ』と言っているのでした。」
ははは、なるほど。