大昔の話です。
知的障害特別支援学校にいた頃。
※前にエントリーに書いた時は忘れてしまっていた細かいところですね。
kingstoneです。
今日、ある男子生徒がプールに入りに来ました。
女性の先生が連れて来られたので、私、着替えについていきました。
その時、彼とコミュニケーションしたいなあ、と思い紙とサインペンを用意していきました。
彼が着替えてから「あついなあ」と言うと彼はうなづきます。
(うなづくんだからいいようなものなのに)「あつい?」と尋ねて彼に何か書いて、ってうながしました。すると彼は「プール」と書きます。
「おお、プール。プール楽しいよなあ。楽しい?」と言ってから(しかし・・もうちょっと言い方、尋ね方ないかああ・・・で、またこの時、彼は強くうなづいてました)うながすとまた「プール」と書きます。
私は感動していました。私は特に最初は一言も「プールと書きなさい」とか言ってません。たぶん彼の頭の中は「はやくプールに行きたい」という思いでいっぱいだったのじゃないかと思います。
さて、彼の書いてくれた紙を出会う先生方に見せて説明しまくりました。
たいていの先生はびっくりします。彼にそんな力があるとは思っていなかったのでしょう。ある先生は「それくらい書けると思うは」とおっしゃいました。しかし・・・今までそういう環境を用意してきたか、ということは疑問ですね。例えば時間割を写させるというようなことはやっていても。
私が先生方にお見せした意味は、単純に感動した、ということもあります。しかし裏の意味もあります。その生徒を見ていても、どの生徒を見ていても、「この子はどんなことを考えているのかな。思っているのかな」と考えることも少ないのじゃないか。また思ったとしてもせいぜい顔色から読みとろうとするくらいでそれ以上のことはしていないのじゃないか。もっと、そういうことを考えようよ、具体的な方法も用意しようよ、ということです。授業なんかも変えていかなきゃ。(ただし、裏は言わない)
というような話を若い人にしているとある先生が話に寄ってきました。
「でも大事なのはそいう方法じゃなくて、相手がどういうことを考えているか、わかろうとする態度よ」
思わず頭に血がのぼりそうになりました。もちろん、私としては「方法」も大事なんだよ、ということを伝えたいわけです。でも、実は私の思いにはもちろん「相手がどういうことを考えているか、わかろう」とすることが根底にあります。しかし話の流れでそう出されたらなあ・・・何か私がそういうことを大事にしていないみたいじゃない(笑)
でも、2言3言話してから「この方も大事なことを言っているのだ」ということで、私は引いて主として若い方とこの方がしゃべり、私は時々相づちをうつ、というのに変えました。
この先生も伝えたいことがいっぱいあるんだよな。
で、話が終わったあとで、この先生に「また自主研修会で講師もしてね」とお願いしました。何となくそうすることが「公」であるような気がするのね。実際1対1の子どもとのやりとりの感受性は、この先生素晴らしいものがあります。
とここまで書いてきて、笑いそうになります。
いつもOさんが「公」だの「納税者への義務」だの言って、私は「そんなんちゃう。私は私がやりたいからやってるだけや」なんて言ってるのにね。
さて、その生徒の話をしていて私が
「例えば、鉄道に乗ってはいけない、ではなくて、休みになったら彼が鉄道で京都まで行きたいとか伝えて、一人であるいは誰かと行ける、なんてことになったらいいよね」と言うと「まず無理やね。よっぽと理解ある支援者がいないと」という話になりました。
そうかなあ・・・これは言っても仕方がないけど、私が今の知識があり、その生徒を小学部時代からずっと担当していたら、そしてできれば学校全体のカリキュラムと別に私の思うようにできていたら9年間あればそういうこともできるようになっているのじゃないだろうか・・・(注・今の学校のカリキュラムででは、自信はありません)
何かものすごく悔しいです。
で、やりすぎるほど宣伝活動をしていると思っていますが、いろんなものを見ていると悲しいです。
プール外伝支援者が障害のある人の手を持ってするコミュニケーション2
posted by kingstone at 11:03|
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特別支援教育や関わり方など
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